インスタにアップした写真に解説つけようのコーナー番外編。香港スイーツといえば許留山(Hui Lau Shan)だ。糖朝は日本に進出してるけど、許留山は未上陸らしい。こちらは2017年、現地からアップした写真。
#now at #Huilaushan, Sheungwan, #Hongkong
#now at another #Huilaushan 許留山, #TST, #Hongkong
つねに監視されてる感のあるチベット方面から香港に下りてくると、英語と資本主義と自由満載の世界は本当に楽園のように思える。その開放感はカトマンズと双璧をなす。
その香港がまさかこんなことになろうとは。
思いもよらなかった、といえば嘘になる。1997年に英国から返還されたとき、いちおう「五十年不変」という約束?はあったようだが、どうせそんなもん守られるはずがない、遅かれ早かれチベットやウイグルと同じことになる、と誰もが思っただろう。「六四屠殺」(天安門事件)をやらかしてまだ10年もたっていなかったのだ。
初めて香港に行ったのは1987年。前回の記事に書いたチベット行きの出発地だった。空港から市バスでチムサーチョイまで行き、おなじみの雑居ビル、チョンキンマンションに泊まり、陸路で広州に入るという、絵に描いたようなバックパッカールート。それが本日インスタにアップした写真。古いネガをスキャンしたので、いかにも昔な感じ。
at Chungking Mansion, #Hongkong in 1987 summer on my way to #Tibet for the first time. #香港
すでにインドやネパールに行っていたので、そこまでカオスには感じなかったが、香港の中ではここだけ匂いが違う感はあったかも。
香港には1989年にも2回ほど、いや、3回かな、立ち寄っている。なぜかというと、1989年の3月、ラサに戒厳令が布告されてしまい、チベット行けねーじゃんと右往左往していたからだ。87年夏にチベットから帰ってきた途端、その秋に大きな抗議行動が始まってしまい、だんだん盛り上がって、とりかえしのつかないことになってしまった。
結局、チベットではなくインドに行き、5月から9月くらいまでダラムサラにいた間に、さらに天安門事件が起こってしまった。ダラムサラではテレビとは縁遠い生活だったが、みんなが騒いでいたので、レストランか何かで見たんだと思う。けど断片的で、あの映像をちゃんと見たのは、ずっと後のことだ。
ダラムサラの後はカシミールからパキスタンに入り、カラコルムハイウェー経由でウイグルに行き、カシュガルで追い剥ぎにあった後、またはるばる香港に出てきて、ラッキーゲストハウスの上海街じゃなくてHumphreys Avenueのほう、「ラッキー1」だったかな? そこのドミにしばらくいる間に、ベルリンの壁が崩壊。ラッキー1は欧米人が多かったので、ちょっと盛り上がっていた。
ラッキー1にいる間、日本語を教えるバイトとか、映画のエキストラとか、色々やってたけど覚えてるのはチョウ・ユンファの『ゴッド・ギャンブラー』(賭神)の夜間撮影に本人が来てたことぐらいかな。何の話だ。
あれからちょうど30年…。
ここはひとつ、いろんな人にがんばってほしいという祈りを込めて、2017年の文武廟を最後に。