チベット式

チベットの今、そして深層 by 長田幸康(www.tibet.to)

【チベット紀行】1997年のカム・ダルツェド(バター茶女子)

インスタにアップした写真に解説つけようのコーナー。今回は1枚だけ。場所はカム地方のダルツェド。漢語では四川省康定。カムの入り口となる都市で、成都から到着すると、ようやくチベットに帰ってきたという気分になれる。標高は2,500mくらいしかないので、血中酸素濃度的にも余裕だ。

写真は1997年。今でこそ空港があるが、当時は成都の交通飯店隣りの新南門バスターミナルからダルツェドまで、運が悪いと、たっぷり2泊3日かかった。成都から雅安までは高速道路であっという間なのだが、そこから西、チベット高原へと上っていく川蔵公路が不安定だった。雨で山道が崩れたり、途中の峠を越えるトンネルが工事中だったり。そうすると雅安から南にどんどん下り、石棉という、いかにも体に悪そうな街(実際に石綿鉱山がある)を経由し、北上してチャクサム(瀘定)でようやく川蔵公路に戻れる。そんなこんなで苦労してたどり着くダルツェドには、色々と微妙な思い出が多い。前置きが長かったが、この1枚。

https://www.instagram.com/p/BycvR3dgY_q/

Making butter tea in traditional style, Kham Dartsedo, Eastern #Tibetin 1997 autumn

チベット人が好むバター茶をつくっている女の子だ。「ドンモ」という木製の筒に、お湯と茶葉と塩を入れて攪拌する伝統的なスタイル。カム地方では、バターを入れず、苦味の効いたブラックティーのまま飲むことが多い。バター茶じゃないじゃん、という話だが、途中で器のほうにバターを入れたりもするので、バター茶でいいと思う。

庶民の暮らしぶり満載のこの部屋は、日本で言うところの警察学校の寮の一室。ダルツェドの公安局の敷地内だ。そう、この子は婦警さん(死語?)になる予定で、ここに暮らしている。

本当は長い長い話だが、なぜそこに行くことになったのか、手短に記そう。当時は、というか今でもそうかもしれないが、中国では外国人が訪問・滞在していい場所とダメな場所が決められていた。ダメな場所は「対外非開放地区」などと呼ばれる。対外的に開かれていないエリアという意味だ。

1997年当時、四川省のカンゼ(甘孜)チベット族自治州では、対外開放されていたのはダルツェドのみだったようだ。ようだ、というのは、わざわざ確認しなかったから。「××は開放されてる?」と公安に聞いて、NOと言われたのに行ってしまった場合、「非開放だとは知らなかった」と言い訳できなくなる。

というグレーな状態で、ダルツェド以外のラガン、タウ、タムゴ、そしてラルン・ガルやセルタなど、普通にバスやヒッチで行けてしまったし、宿にも泊まれてしまった。これは、かつてチベット高原の他の場所でもよくあったことだ。

が、あまり長居したり、民家に泊まったりすると捕まることもある。たぶん出入国管理法的な法律だ。私の場合、ダルツェドからずっと奥に行った場所で、仲良くなった学校の先生に誘われ、教員寮に泊まって酒盛りしていたところに公安が踏み込んできた。ずいぶんあちこちに行っていて悪質だということになり、その町では処分できず、現地の公安さんにジープで護送されていったのが、州で一番大きな公安のあるダルツェドだった。

ダルツェドの公安で取り調べを受けた。といっても、べつに何か悪事をたくらんだわけではないので、何も出てくるはずはない。ただ単に仲良くなって泊まりに行ったら捕まったというだけで、あとは罰金がいくらになるかの攻防だ。罰金は最高5,000元の規定だったが、とても貧乏そうに見えたのだろう、実際に課せられたのは300元だった。公安側は全員がチベット人だったのも、気が楽だった。

そんな取り調べのついでに、私を護送してきた公安さんに連れられて、彼の同郷の後輩たちを訪ねていったのが、このバター茶娘の部屋だった。ダルツェドというのは結構な都会なので、まず部屋にドンモが備えてあり、伝統的なチベット茶を日頃から飲んでいるというのが驚きだった。で、ダルツェドは開放地区なので、「開放地区だからいいよね?」と周りに確認しながら、この写真を堂々と撮ることができたのだ。

なんという緩い捕まり方なのだろう。食事も行く先々でごちそうになっていた。公安つながりの色々なチベット人たちに出会えて、逆によかったとさえ思っている。その後も公安方面では、良い出会いに恵まれている。

もっとも、ゆるゆるだったのはケータイもネットもなかった20世紀の話。何か違反して処分を受けても、現地の公安に書類が残るだけで、他の署と共有されてはいなかっただろう。今ではすべての記録がオンラインで共有され、監視カメラと顔認証システムで、どこにいるかまですぐわかってしまうはず。うかつなことをして迷惑をかけないよう、気をつけなきゃと思う。

 

 

【チベット紀行】1997年と2002〜2003年のカム・ラガン「草原」編

インスタにアップした写真に解説つけようのコーナー、前回のカム地方ラガン「お寺」編に続き、「草原」編だ。場所はラガンの町から見ると、前回紹介した佛学院の側。距離感はよく覚えてないのだが、町からすぐ歩いて行けるレベルだ。目印は、立派なマニ石の塚。いきなり訪ねていったわけではなく、たしかバスの中だったか、宿の近くだったかで知り合った、このあたりの牧民出身の女の子に連れていってもらった。彼女はもっと大きな町の学校に行っていて、普段は寄宿舎暮らしだが、何かの用事で草原に帰ってきていた。何の用事だったかな。親に薬を届けるんだったかな。それは別の場所の話か。ただの夏休み? やばい、忘れてしまったことが多い。マニ塚はこんな感じ。

https://www.instagram.com/p/BtZ6jaqgpIg/

#Tibetan nomad family, Kham Lhagang, Eastern #Tibet in 1997

https://www.instagram.com/p/BLjDgmhAvzN/

#Tibetan nomad kids near Kham Lhagang (Ch: Tagong, Sichuan), Eastern#Tibet in 1997

かわいすぎる。妙にちゃんと整列してしまった。これは1997年。チベット服と今ふうの服が混ざっている。ちょうどそんな時代だ。

で、いつもの流れで、ウチに来いということになる。ウチといってもテントだ。それがこの写真。遠くに家畜も見える。

https://www.instagram.com/p/B28zURPAGMR/

At Lhagang grassland, Kham Lhagang, Eastern #Tibet in 1997

こうした場合、注意すべきは犬だ。テントの左のほうに控えている黒い塊が見えるだろうか。一見やる気なさそうに寝そべっているように見えるが、ある地点から近づくと、ムクッと起き上がり、ものすごい勢いで吠えはじめる。この時は、つながれていたと思う。子どもたちに連れて行ってもらったが、ヨソ者だとしっかり認識しているようで、テントの中に入っても吠え続けていた。これがテントの中。ご両親がいた。

https://www.instagram.com/p/BOHxVosALfE/

#Tibetan nomad family near Kham Lhagang (Ch: Tagong, Sichuan), Eastern #Tibet in 1997

バター茶じゃなくて、カムでおなじみのブラックティーをいただいたと思う。周りには他にも2張か3張テントがあった。家族・親戚なのだろう。

彼らはここに定住しているわけではなく、季節によって移動している。2002年、2003年に見に行ったら、テントは1つもなかった。というわけで写真はない。季節も違ったので、行き違いだったのかもしれない。

1997年から20年以上たった。今でも牧民を続けているのだろうか。テント暮らしではなく、どこかの町に定住してしまったのかもしれない。

 

 

【チベット紀行】1997年と2002〜2003年のカム・ラガン「お寺」編

インスタにアップした写真に解説つけようのコーナー、なぜかアムドが続いていたが、大好きなカムに戻ってみよう。場所はカム地方ラガン。漢語では塔公。ダルツェド(康定)からダルドラ(峠)を越え、ゾンシャプ(新都橋)から川蔵公路の北路に入って最初の町だ。今は空港もできて、道もだいぶ変わってるんじゃないかな。

ラガンは草原の真ん中にあって、標高は3,700mぐらい。大小のチョルテンに囲まれた寺、ラガン寺がある。そういえば寺の写真はインスタにアップしてなかった。こんな感じ。背後の聖山はカム風の祈祷旗タルシンに彩られている。 

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周りは草原で、雪山も近くに見えて、チベット情緒満点な雰囲気。1997年に初めて行ったときには、のどかな村だったが、幹線道路沿いという絶好のロケーションもあって、2004年くらいから漢人旅行者に席巻されてしまったようだ。平和なときに行っておいてよかった。

1997年、2002年、2003年に泊まったのは確実だが、他の年にも通りがかったことはあるはず。やっぱ、1997年のときが一番濃かった。たとえば宿(4人部屋だったかな)でこんなやつと同室になったり。

https://www.instagram.com/p/BTjIwtfgNsr/

#Tibetan trader at a guesthouse in Kham Lhagang, Eastern #Tibet in 1997

たしかゴロク出身。ナイフとか玉とか、いろんなものを売り買いしてる商人だ。何かをお世話になった。あと、こんな人もいた。

https://www.instagram.com/p/BNj13zagiiZ/

#Tibetan pilgrim for the sacred Mount Zhara Lhatse, Kham Lhagang (Ch:Tagong, Sichuan), Eastern #Tibet in 1997

町の外れに大きなチョルテン(仏塔)があり、そこから東側の雪山のほうに向けて、タルシン(祈祷旗)が立ち並んでいる。巡礼路を示しているらしい。彼女は巡礼者と言っていたが、チョルテンにお供えするツァツァ(お供えもの)を作って売っていた。家族もたくさん来ていて、寺の周りを一緒にコルラしたりした。

その寺に戻ろう。

https://www.instagram.com/p/Bx6VQr0g3RK/

At Lhagang Monastery, Kham Lhagang, Eastern #Tibet in 1997

これはインスタに上げたフレンドリーな小坊主の写真。お守りを売っていた。1997年と書いてしまったが間違い。あきらかに2002年か2003年だ。当時はまだポジフィルムで撮影していたので、スライドにするためスリーブを切り離してしまうと、いつの写真なのかわからなくなりがち。

サキャ派の寺なので、後ろに故チョゲ・ティチェン・リンポチェの写真が掲げられている。その左に少しだけ見えるのがサキャ・ティチェン・リンポチェのはず。右側はポタラ宮だ。

2002年か2003年、インドから帰国した僧侶たちとメールアドレスを交換した覚えがある。すでに携帯はあったが、スマホはなく、WeChatもなかった、そんな時代。

さて、ラガン寺とは別に、町中からは見えにくいところに、立派な佛学院がある。こんな感じ。

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これは1997年秋。修行がはかどりそうなロケーションだ。今はどうなっているのだろう。
ちょっと僧坊にお邪魔してみた。

https://www.instagram.com/p/B2IrboIgxnz/

At Lhagang Buddhism Institute, Kham Lhagang, Eastern #Tibet, 1997 autumn

ポーズを取れと頼んだわけではない。彼らは漢語や英語も勉強していた。英語は独学だったかな。本棚に自分の持っているのと同じ本があると、なんだか嬉しい。

さてラガンで好きだったのは、寺よりも、周りの草原だ。というわけで、長くなってしまったので次回、草原編に続く!

 

【チベット紀行】1992年と2018年のアムド・レゴン(ゴマルとセンゲション)

インスタにアップした写真に解説つけようのコーナー、ひきつづき。前回のロンウォ寺のある町からロンウォ川を下ると、西岸にニェントクとゴマル、東岸にセンゲションという村がある。それぞれの村に競い合うように寺やチョルテン(仏塔)が建っていて、たっぷり時間をとって訪ねたいところだ。さすがアムド・チベット文化の中心地。1992年も2018年もニェントクは素通りしてしまった。もうしわけない。

まずは1992年のゴマル寺の大チョルテン。

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立派すぎる。高さは30mぐらい。上層階まで登ることができたのはいいんだけど、手すりとかなくて怖かった覚えが。レンズのフードのつけ方を間違えて、角がケラレてしまってる。このときは香港で買ったキヤノンAE-1(という一眼レフカメラ)を持っていた。フィルムはコダクローム

そして、2018年、現地でiPhoneで撮ってインスタに上げたバージョンは…

https://www.instagram.com/p/BmNeLICBtgr/

#now at Gomar Monastery, Amdo Rebkong, Eastern #Tibet

アングルが違うけど、ほぼ変わってない。メンテナンスが行き届いてるということか。

次、対岸のセンゲション(吾屯村)。タンカ絵師の郷として名高いエリアだ。上流のセンゲション・ヤンゴ・ゴンパ(吾屯上寺)と下流のセンゲション・マンゴ・ゴンパ(吾屯下寺)があり、どちらもご立派。

1992年に訪ねたセンゲション・マンゴ寺は…

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右から弥勒殿、集会堂、写ってないけど、左にもう1つ、護法尊のお堂か何かがある。この右手には高僧たちの居室などが再建されている最中だったと思う。

そして、26年ぶりに訪ねた2018年の様子は…

https://www.instagram.com/p/Bnc2uiaBTeE/

Senggeshong Mago Monastery under renovation, Amdo Rebgong, Eastern#Tibet, August 2018

なんだかリニューアル工事中。あいかわらず工事現場で働いているのは女性ばかりだ。周りのお堂や僧坊が増えている上、さらに巨大なチョルテンやら仏像が立ち並ぶ広場が…。

https://www.instagram.com/p/BoBrwkMAQi6/

Stupas in Senggeshong village, Amdo Rebgong, Eastern #Tibet, August 2018

こんなのもできてた。

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レゴンの人々の気合に圧倒されつつ西寧に戻った。残念ながら、今回も時間不足で、各寺それぞれの見所を見逃しまくっている。やはりロンウォに1〜2泊して、一帯をコンプリートしたいところだ。

 

【チベット紀行】1992年と2018年のロンウォ寺(アムド・レゴン)

インスタにアップした写真に解説つけようのコーナー、ひきつづき。場所はアムド地方レゴン(レプコン)のロンウォ寺。漢語では同仁の隆務寺。青海省西寧から南へ200kmくらいだ。1992年当時はバスで5時間くらいかかったと思う。標高2,500mくらいしかない低地で、周りは豊かな農村。周辺の町・村にも寺がある。レゴン地域はアムド文化の中心地のひとつで、とくにタンカ(仏画)の絵師が多いことで知られている。  

https://www.instagram.com/p/B1iCkTJgLoI/

At Rongwo Monastery, Amdo Rebgong, Eastern #Tibet in 1992

こちらは1992年のロンウォ寺の集会堂(だと思う)。当時ほとんどのチベットの僧院で高僧が不在になってしまっていた中、この寺にはトゥルク(転生した高僧)が複数いた。1992年に目にした高僧はまだ子どもだったので、転生者として認められたばかりだったのだろう。というわけでロンウォ寺は当時から、復興中ながらも活気に満ちていた。

1992年に僧坊に招いてくれた僧侶と、しばらく手紙のやりとりをしていた。急に手紙が途絶えたので、どうしたのかと思っていたら「洞窟にこもって修行をしていた」みたいな手紙が急に届いたりして。寺の裏山にそういう洞窟があるという。きちんとした修行のできる環境が整っているようで安心した。それにしても今ならWeChatで一瞬で終わるやりとりに、ずいぶん時間がかかっていたものだ。

そのロンウォ寺に昨年、26年ぶりの再訪がかなった。が、西寧から日帰りだった上、夕立に襲われかけて、慌ただしい感じだったので、件の僧侶のその後は確認しそびれた。また次回かな。

ロンウォ寺の2018年夏の様子はこんな感じ。雲行きがあやしい。

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https://www.instagram.com/p/Bm5M_GAB7M2/

At Rongwo Monastery, Amdo Rebgong, Eastern #Tibet on August 2018

お供え物をつくってるとこ。こういう姿は27年前と変わらない。スマホ持ってるんだろうけど。

大きく変わったのは、このお堂のあたりかな。チャムカン(弥勒殿)。

https://www.instagram.com/p/BnLNVW_B7PA/

Maitreya Buddha of Rongwo Monastery, Amdo Rebgong, Eastern #Tibet, August 2018

こんなキンキラキンの弥勒仏は、当時なかったと思う。

一方、通りかかった僧坊の門が開いていたので、犬に警戒しながら、のぞいてみたら…

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古びていて、いい感じ。前述の僧侶もこういう木造の僧坊に住んでいた。普通は中庭に色とりどりの花とか盛大に植えたりして綺麗にしちゃうものだが、こちらはずいぶん質素だ。侘び寂び的な美意識をもった僧侶なのかもしれない。

ロンウォ寺は西寧から微妙に離れているせいか、クンブム(いわゆるタール寺)ほど極端な観光地化は進んでいない様子。ちょっとホッとして隣の街の寺に向かった。 

【チベット紀行】ていうか【香港】1987年チベットに行く途中とか。

インスタにアップした写真に解説つけようのコーナー番外編。香港スイーツといえば許留山(Hui Lau Shan)だ。糖朝は日本に進出してるけど、許留山は未上陸らしい。こちらは2017年、現地からアップした写真。

https://www.instagram.com/p/Ba0qKZ5ggIE/

#now at #Huilaushan, Sheungwan, #Hongkong

https://www.instagram.com/p/Ba1U11og_xJ/

#now at another #Huilaushan 許留山, #TST, #Hongkong

つねに監視されてる感のあるチベット方面から香港に下りてくると、英語と資本主義と自由満載の世界は本当に楽園のように思える。その開放感はカトマンズと双璧をなす。

その香港がまさかこんなことになろうとは。

思いもよらなかった、といえば嘘になる。1997年に英国から返還されたとき、いちおう「五十年不変」という約束?はあったようだが、どうせそんなもん守られるはずがない、遅かれ早かれチベットウイグルと同じことになる、と誰もが思っただろう。「六四屠殺」(天安門事件)をやらかしてまだ10年もたっていなかったのだ。

初めて香港に行ったのは1987年。前回の記事に書いたチベット行きの出発地だった。空港から市バスでチムサーチョイまで行き、おなじみの雑居ビル、チョンキンマンションに泊まり、陸路で広州に入るという、絵に描いたようなバックパッカールート。それが本日インスタにアップした写真。古いネガをスキャンしたので、いかにも昔な感じ。

https://www.instagram.com/p/B1L3JfvAq-M/

at Chungking Mansion, #Hongkong in 1987 summer on my way to #Tibet for the first time. #香港

すでにインドやネパールに行っていたので、そこまでカオスには感じなかったが、香港の中ではここだけ匂いが違う感はあったかも。

香港には1989年にも2回ほど、いや、3回かな、立ち寄っている。なぜかというと、1989年の3月、ラサに戒厳令が布告されてしまい、チベット行けねーじゃんと右往左往していたからだ。87年夏にチベットから帰ってきた途端、その秋に大きな抗議行動が始まってしまい、だんだん盛り上がって、とりかえしのつかないことになってしまった。

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結局、チベットではなくインドに行き、5月から9月くらいまでダラムサラにいた間に、さらに天安門事件が起こってしまった。ダラムサラではテレビとは縁遠い生活だったが、みんなが騒いでいたので、レストランか何かで見たんだと思う。けど断片的で、あの映像をちゃんと見たのは、ずっと後のことだ。

ダラムサラの後はカシミールからパキスタンに入り、カラコルムハイウェー経由でウイグルに行き、カシュガルで追い剥ぎにあった後、またはるばる香港に出てきて、ラッキーゲストハウスの上海街じゃなくてHumphreys Avenueのほう、「ラッキー1」だったかな? そこのドミにしばらくいる間に、ベルリンの壁が崩壊。ラッキー1は欧米人が多かったので、ちょっと盛り上がっていた。

ラッキー1にいる間、日本語を教えるバイトとか、映画のエキストラとか、色々やってたけど覚えてるのはチョウ・ユンファの『ゴッド・ギャンブラー』(賭神)の夜間撮影に本人が来てたことぐらいかな。何の話だ。

あれからちょうど30年…。

ここはひとつ、いろんな人にがんばってほしいという祈りを込めて、2017年の文武廟を最後に。

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【チベット紀行】1987年のラサの空港の近く(懐)

インスタにアップした写真に解説をつけていこうのコーナー、引き続き。今回はこちら。

https://www.instagram.com/p/BMsh5lsgCt3/

#Tibetan kids in Gongkar village near #Lhasa airport in 1987 (my firstvisit to Lhasa)

なんと30年以上前…。場所はラサの空港のあるコンカル。とてもここに空港があるように見えない、のどかな村だったんだけど、今は立派な街になっている。当時の滑走路はこんな感じ。

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1987年は、ラサに初めて行った年。この春に、ネパール側から国境近くのダムとニャナンだけ行ったのに続き、本格的に本土デビューとなった。香港から陸路で広州に入り、鉄道で蘭州、西寧を経て、バスでゴルムドからラサへ、という一般的なルート。とくにチベットに行こうと思っていたわけではなく、一緒にいた香港人グループについて行ったらそうなったというだけだった。

ラサはまあ一通り見て、宿はキレーのドミだった。ラサで過ごしたのは1週間ぐらいかな。で、帰りは空路で成都に下りようと思っていたら、問題発生。

当時、ラサから成都への朝の便に乗るには、前日の夕方、ラサの街からコンカルに行き、空港ホテルで1泊する必要があった。ラサの街とコンカルを結ぶ、わずか100kmの道が超悪く、雨でも降ろうものなら、何時間もかかったからだ。今は30分くらい?

で、何が問題かというと、天候が悪くて飛行機が飛ばなかったのだ。そもそも成都から飛んでこないと機材がないし、いったん飛んできたら最後、なかなか脱出できないという罠。前日か、もっと前の日から欠航が続いており、飛べない人がどんどんたまっていた。私がコンカルに着いた後も3〜4日飛ばず、ひたすら空港の質素なホテルに泊まって、のどかなコンカル周辺で過ごすはめになった。こんな感じ。

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暇だからといって、ラサの街に帰るわけにはいかない。道路事情が悪いと、往復するだけで丸1日かかる。急に気が変わって飛ぶとかいうかもしれないし、いざチェックインとなれば、全然並ばない中国人が殺到するカウンターで早い者勝ちの戦いが待っている。時々カウンターやオフィスに行って様子を伺いながら、ずっと待っているしかなかった。

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上の黒板は、無人になった昼間の空港カウンターに掲げられた「今日は終日無飛行」の告知。何日も待っている欧米人たちが日替わりで落書きしていた。ホテルは4人部屋で、陽気なスペイン人グループと一緒だったかな、たしか。

そんな暇で暇でしかたない中、近所をうろうろしているときに出会ったのが、近所の農家の子どもたち。下のような写真が残っているので、最初は川の対岸にいたのかな。たぶん外国人たちにお菓子をもらいに来たんだと思う。

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コンカルに行ったのは、2007年が最後だが、その時点ですでに開発が相当進んでいて、この場所がどこなのか特定が難しくなっていた。この子たちが幸せになっているといいなと思う。まるごと立ち退きになっていなければ、探せば1人ぐらいは見つかるんじゃないかな。

今回の写真はすべて、ネガフィルムを専門の業者さんに依頼してスキャンしたもの。ちょっと色が黄身がかってますね、修正してません、すみません。カメラはたしかCanonのAV-1というのを借りて持っていった記憶が。ちゃんとフィルムが装填されてなくて、デプン寺で撮ったはずの1本まるごと失敗、というのも、今となってはフィルムカメラ時代の懐かしい思い出…。