チベット式

チベットの今、そして深層 by 長田幸康(www.tibet.to)

チベット・アムド地方ンガバ(Ngaba)小紀行(5)ンガバの町

「夏また来い。なんでこんな時に来たんだ?」
ンガバのチベット人に何度も言われた。

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たしかに以前、秋に来たときには、一面麦畑が広がっていて美しかった。今は2月。風景は一面茶色で、午後になると強い風が吹いて寒々としている。夏はきっと緑の草原が広がり、花が咲き、麦畑も青々としているのだろう。

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いや、そのことを言ったわけではないかもしれない。この町で僧侶が焼身自殺を図ったことを知っている今となっては、深読みせざるをえない。町で一番豪華な、ニェンポユルツェという聖山の名を冠したホテルは、中国人兵士たちの宿となっており、外国人は宿泊できなかった。

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ンガバ(Ngaba)は、西端にあるキルティ・ゴンパ(格爾登寺)の門前町である。ときどきメインストリートを、兵士を積んだ武装警察のトラックがゆっくり巡回している。中国のどこかからやってきた兵士たち。焼身自殺しようとした僧侶を射った(とされている)のも、こうした白い顔をした若い兵士だったのか。

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もうみんな慣れっこになっているのか、街中は意外なほどにぎやかで、穏やかそうに見えた。腹の具合が悪かったので、市場に果物を買いに行くと、バナナはもちろん、パイナップルやマンゴーも売っていた。市場に連れて行ってくれたチベット人が言った。
「ここで商売してるのは全員中国人だ」

チベット・アムド地方ンガバ(Ngawa)小紀行(4)ツォクチェ王の城

マルカム(バルカム、中国語で馬爾康)はアバ州の州都。大都会だが、意外にチベット服を着ている人も多い。町の中心部から少し離れると、山の斜面の高台に石造りのチベット人の集落が広がっている。

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町から10kmほど東にチョクツェ(卓克基、チベット語で“机”という意味)というエリアがある。8世紀にチベットのティソン・デツェン王に迫害されたヴァイロツァナ師が流された地、というのはおいといて、今、丘の上にそびえるのは「土司官寨」。「土司」という中国語は、少数民族の土着の支配者のことだそうだが、チベット語の説明文に「ギャルポ」(王様、殿様)と書いてあったので、ここは殿と呼んでおく。要は、ツォクチェの殿様のお屋敷、お城である。向かいの丘の斜面には石造りのチベット人の民家が立ち並ぶ。

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城は5階建て。外側は堅牢な石造りだが、内側は木造だ。この城はなんと7世紀からここにあるそうだが、もちろん何度も建て直されている。1階から5階まで内部はすべてギャロン・チベット人の文化を紹介する博物館として公開中。一番上は宗教のフロアになっていて、チベット仏教各宗派とボン教の仏像や仏具が、いかにも博物館的に展示されていた。

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毛沢東周恩来が「長征」とかいうご苦労様な行軍の途中ここに滞在したそうで、2階のワンフロアまるごと費やしてあれこれ展示してあった。殿様たちの豪華な部屋に比べて、これみよがしに質素を強調してあるよな、と、何を見ても悪意にしか感じられないのが哀しい。殿は最初、国民党派だったが、最終的には共産党体制に馴染んで、後にアバ州の副知事だったかになったそうだ。

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さて、次はいよいよンガバへ向かう。幹線道路沿いの刷経寺という町で食べた中華料理の油が気持ち悪く、その後たぶんそのせいでずっと腹の具合が悪かった。ンガバは標高3200mという低地だからと油断していたら、思いっきり高地適応に失敗して、飯は食えないは頭は痛いはという状態に陥った。情けない。

チベット・アムド地方ンガバ(Ngaba)小紀行(3)マニ堂

白いチョルテン(仏塔)やタルチョ(祈祷旗)がときどき目に入る。
本格的にチベット文化圏に入ったようだ。

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たぶん紅葉で有名なミャロ(米亜羅)あたり。道路沿いの村にマニ車のあるお堂を見つけた。中には大きなマニ車がひとつ。グル・リンポチェや観音菩薩の壁画は真新しい。 

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近所のおばちゃんたちが夕方の散歩に来ていた。チベット高原の裾野であるギャロン(中国の谷という意味)に住むギャロン・チベット人。言葉もいでたちも、普通に「チベット人」という時のチベット人とはかなり違う。

けれど、
オムマニペメフム。
オムマニペメフム。
観音菩薩に捧げる祈りの言葉は同じだ。

チベット・アムド地方ンガバ(Ngaba)小紀行(2)四川地震の被災地

成都から岷江という川を遡る。
世界遺産・都江堰(とこうえん)を過ぎると、もう山道。
ブン川にかけては、
仮設住宅の集落、「救災」と書かれた青いテントが目立つ。

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昨年の四川地震で大きな被害を受けた被災地。高速道路や橋が落ちたままになってたり、 建物が崩れっぱなしになってたり。 今でも崖が崩れるそうで、舗装しなおしたばかりの道が何カ所も寸断されていた。

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理県に入り、だんだん標高が上がると、石造りの建物が増えてくる。ようやくチベットぽくなってきた。新築の家が多いのは、地震のせいだ。

チベット・アムド地方ンガバ(Ngaba)小紀行(1)

1週間だけ休みをとったのでラサに行こうと思ったら、
見事に入域許可証の発給を拒否されてしまったため、
とりあえず四川省成都まで飛び、さて、どうしようか。
というわけで、アムド地方のアバ周辺にちょっとだけ行ってきた。

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微妙な時期の、微妙な地域のため、細かいことは書かないでおく。
ルートぐらいはいいだろう。
成都→バルカム(馬爾康)→ンガバ→茂県→成都
チベット人も一緒です。
写真はアバの町にある大僧院キルティ寺の入り口に建てられた公安。
昨年、弾痕の残る血まみれ遺体写真が流出した、あの寺だ。

検問もあったし、いろいろと物騒だった。
しかし、意外に何事もなく穏やかな1週間だった。

ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(2)WD編

チベット人女性作家ツェリン・ウーセル(中国名は唯色)による、チベット人の証言の記録の後編。
アムド出身のWD(仮名)の証言。
前編は↓
ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(1)DZ編

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在北京看見拉薩的恐懼(二)(2008.07.04)
英文は
The Fear in Lhasa, as Felt in Beijing(2008.08.03)

 
翻訳は基本的には中国語ベースで、
よくわかんないところは英語も参考にしつつ。
急いでやったので、正確さは90%くらい。
すごく長いです。

ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(2)WD編

4月のある日、公衆電話でアムドとカムの友人に電話した。安否を尋ねると、幸いにも2人とも無事である。少々おかしくもあり、悲しくもあったのは、2人は別々のチベット人地域に住んでいるのに、2人とも何度も「サプ・サプ・チェ」(気をつけてね)と繰り返していたことだ。去年のロサル(チベット暦の新年)にラサにいた時のことを思い出す。酒が入って初めて本音を漏らした友人がこう言ったのだ。
「今では“タシデレ”なんてあいさつはしない。すでにタシ(吉祥)でもデレ(幸運)でもないからだ。お互いに“サプ・サプ・チェ”と声を掛け合わなければならないんだ」

WDも、別れるときには“サプ・サプ・チェ”と言い残して、人混みに消えて行った。彼はチベット服を着なくても、一目でチベット人だとわかる。私は最近知り合ったばかりで、かれこれ3度会ったことがある。しかし、あまり詳しくは書けない。彼は再三こう言っていたからだ。
「私が誰だか書かないでくれ。まだラサに帰りたいんだ。身分証は登録されているし、写真も撮られている。誰なのかは書かないでくれ。書かれると、見つかってしまうだろう」

彼はハンサムなアムドの若者だ。しかし、眉間に寄った皺に、その重々しい心持ちが表われている。彼は頻繁に、おびえたように突然周囲を見回すことがある。にもかかわらず、彼は私の取材のお願いに快く応じてくれた。私たちが出会ったのは偶然だった。その偶然は、まるで運命のように思えた。あの場所で、あの時刻に思いがけず会ったことは、あたかも彼がその経験を私に話して聞かせたがっているかのようだった。しかし、再会はうまくいかなかった。私たちはすぐ別れてしまった。他の人たちが一緒にいたからだ。慎重を期した3度目の機会。別の誰かの注意を引かないよう気を配り、私は完璧な記録をとることができた。

ある日の午後、私たちが選んだのは、窓からもドアからも遠く、何かおかしなことがないか注意を払える、角のテーブルだった。椅子の背もたれは高く、人に見れれることもない。周囲にいるわずかな人々はマージャンやトランプに興じており、他人は関心がなさそうだ。私が記録の準備を終えたのを見て、WDは話し始めた。

「3月10日のことから話そう。あの日の午後5時前後、マケアメ(バルコル南街と東街の角にあるチベット料理レストラン)に行ったんだ。するとすぐに、友だちがやって来て、ツクラカン(大昭寺)広場で事件が起こったと言う。駆けつけてみると、8人が捕まって警察の車に乗せられるのが見えた。4人はクシャプ(僧侶)。他の4人は、カムパだったという者もいるし、アムド人だったという者もいるが、とにかくかなり若かった。その前に、すでに何人か僧侶が捕まっていたという人もいる。警官はバルコル派出所のやつらで、ずいぶん手荒だった。周りには大勢の人がいて、チベット人たちは小声で“ニンジェー、ニンジェー”(かわいそうに)と言っていた。泣いているモーラ(おばあさん)もいた。友だちが携帯電話で写真を撮ると、私服警官がやって来て、ひったくって行った。とても怖かったよ」

「翌日、バルコル街一帯は私服警官だらけになった。女性も30〜40人いた。ずいぶん髪が短く、全員が漢人だった。チベット人が話していると、近寄って来て聞き耳を立てる。話が理解できたのかどうかは知らないが、チベット人たちを怖がらせていた。彼らは昼食も夕食も広場で食べていた。弁当が車で届けられるんだ。日が暮れるとようやく去っていく。チベット人たちはみんな彼らが私服警官だと知っているから、お互い小声で注意し合っていた。警官も大勢いて、ただならぬ様子で行ったり来たりしていた。ああ、そうそう、デプン寺とセラ寺の僧侶たちがデモをして、大勢の武装警察に暴行され、引き返させられたと聞いた。ジョカン寺とラモチェ寺は閉鎖されていた」

「14日のことは、はっきり覚えている。午前11時20分、私たちは出発した……(この部分略)……その前に、すでに叫び声が聞こえていた」

私は話を遮った。
「テレビで聞いたわ。チベット人だけが、しかも田舎や草原のチベット人だけが出せる、あの声。町のチベット人にはもう出せない。喉が衰えてしまっているから」
さらに言えば、それは本来のチベット式の雄叫びだ。後の報道では“狼の遠吠え”と形容されていたけれど。

WDはうなずいた。
「そう、まさにその声だ。11時20分過ぎ、いつものように何人かの友人とラモチェ(小昭寺)に行った時、そこですでに事件は起こっていた。大勢のチベット人が気勢を上げ、兵士に石を投げつけていた。私たちはあっけにとられた。近くにいた人の話によると、ここ数日、寺の入り口に警察の車が停まっており、今さっき、僧侶たちが駆け出してきて、参拝者が境内に入るのを妨げていると言って、車をひっくり返したという。警察はすぐ電話で武装警察を呼び、盾と警棒を持った武装警察がやって来て、僧侶たちを殴りつけた。近くにいたチベット人たちは見るに見かねて、こうやって“起ち上がろう”と……チベット人が大勢いたが、みんな幼くて、ひどい格好をしていた。彼らは“ツァンパを食べる者は出て来い!”と叫んで石を投げていた。行商の男が加勢しようとしていたが、奥さんが力を振り絞って腕にしがみついて、行くなと泣いていた。女の子も大勢いて、私たちに向かって“あなたたち、それでもチベット人なの? チベット人ならこっちに来なさいよ”と言った。私たちが合流しないと知ると、地面につばを吐いて“ンゴツァ、ンゴツァ”(恥を知れ)と罵った。正直、私はとても辛かったけれど、参加はせず、ただ側で見ているだけだった。友人の中には、走って行って石を投げた者もいるけれど、また急いで戻ってきた」

「待って」
私は再び遮った。
「何か組織があったり、あらかじめ計画されていたことだと思う?」

「クンチョクスム(三宝に誓って)そうじゃない」
WDは悲しそうに首を振り、話を続けた。


「彼らが投げていた石は、付近の家を建てるためのものだ。ナイフを持っていた者もいたけれど、奇妙なのは、あれはチベットのナイフとは違い、長いナイフだった。どこで手に入れたのか、私にもわからない。カタを振り回していた者が多かったけれど、付近の商店から奪ったものだろう。いずれにせよ、カタはそうした商店にたくさんあった。それから彼らはラモチェからトムシカン(バルコル街の市場)へ流れた。途中、多くの漢人回族の商店が壊された。トムシカン商場も一部放火された。漢人はすべて逃げ、回族は白い帽子を脱いで逃げて行った。どういうわけか、警察がひとりもいなかった。みんな逃げてしまったんだ」

「でも、バルコル街一帯には、いたるところにビデオカメラがある。彼らは知らなかったの?」

「知ってるさ。ビデオカメラのことは多くの人が知っている。でも怖がってなんかいない」
WDは一瞬躊躇したようだが、しばらくしてこう言った。

「民族のためなら、彼らは本当にすごいんだ」
WDのこの言葉はとても印象に残っている。

「私はずっと後ろからついて行った。トムシカンからバルコル街へ向かう間に、人はどんどん増えた。100人ぐらいはいた。アムド人も、カムパも、ラサ人もみんないた。僧侶も何人かいた。群衆はバルコルを2周した。歩きながら、こう叫んでいた。『ギャワ・リンポチェ・クツェ・ティロ・テンパ・ショ』(ダライ・ラマ万歳)、『プゥ・ランツェン』(チベット独立)。その間に、漢人回族の商店が破壊された。ある商店からはカラフルなシルクやサテンの生地が放り出され、地面にばらまかれた。ジョカン寺をはさんで反対側にあるバルコル派出所に放火した者もいるが、たいして燃えなかった。私は北京のJMに電話をした。その知らせに彼はとても興奮していた。1988年3月にも同じことが起こったからだ。当時JMは10代で、商店の門戸に放火して4年間投獄された。おそらく午後3時近くか、3時少し過ぎ、黒い服を着た人々が現れた。顔を覆い、目だけを出している。彼らは銃を構えた! そして発砲した!」

「その人たちは何?」
私は驚いて尋ねた。

「特警だよ! “飛虎隊”みたいな」

飛虎隊? 私は何だか知らないが、映画かテレビ番組に関係ありそうだ。しかし、特警なら知っているので、再び話を遮ることはしなかった。

「30〜40人、黒づくめで顔を覆い、目だけを出して、全員が銃を掲げていた。そのとき、私はバルコル北街の入り口にいて、彼らがツクラカン広場に向かうのが見えた。彼らは群衆の中に催涙弾を投げ、前面にいた人たちは押さえつけられて捕まった。そして、彼らは後ろにいた人々に発砲し、射殺した。私も、多くの人々も、おびえてバルコル街へ逃げ帰った。しかし、バルコル北街の入り口から遠くない所で、10代の少女が石を拾って投げようとしたそのとき、特警が彼女に発砲し、弾丸は喉に命中した。彼女はすぐ地面に倒れた。その時、私と彼女の間は十数メートルか20メートルで、はっきりと見えた。多くの人が目撃していた。本当に恐ろしかった……彼女はまだ17歳か18歳ぐらいだろう」

WDが震えているのがわかった。今なお恐怖は残っているだ。私も緊張し、その現場にいるかのように心が痛んだ。

しばらく後、WDは回想を続けた。
「彼女は地面に倒れると、けいれんして血を流していた。あっという間に特警の車がやって来た。トヨタの4500に似た、暗い色の車だ。車は少女のすぐ前に停まると、2人の特警が飛び降り、少女の遺体を車に放り込んだ。車は少し前進し、バックして去っていった。奇妙なことに、車が去った後、地面の血が消えていた。一滴の血の跡も残っていなかったんだ」

こういった話は聞いたことがない。警察車両が清掃車でないことは明らかだ! しかしWDは言い張る。
「たしかに清掃車ではない。だが、清掃車と同じように、地上の血痕をきれいに掃除してしまった」
もしや新式の警察車両の一種なのだろうか? それには虐殺現場を掃除する機能が備わっているのだろうか? 後にネット上で特警の車両を調べてみたところ、水を噴射する警察車両があることがわかった。上下左右に水を噴射できる他、360度回転するカメラを装備している。さらに、催涙弾を発射するための回転式の発射台もある。しかし、血痕などを消し去る機能を持った警察車両があるかどうかは、まだわからない。そうした警察車両があるのだろうか?

WDは続けた。
「この少女以外に、私は死者を見ることはなかった。しかし、バルコル街でホテルをやっている友人は、特警がバルコル街で発砲し、大勢が死ぬのを屋上から見たという。奇妙なことに、この特警たちはバルコル街だけが管轄で、他のエリアには手を出さなかった。少女の遺体が警察車両に運び去られるのを見て、私たちは逃げ始めた。私は一気にマケアメの角まで走り、脇道に入った。路地の両側の商店は大部分が破壊され、路上はものが散らばってめちゃくちゃだった。ご存知のように、あの辺りは回族が最も多い場所で、すぐそこにモスクがある。チベット人たちが車を燃やしているのが見えた。車が3台、バイクが1台、モスクの前で燃えていた。私は立ち止まらず、人の群れの中を抜けて、大きな門のところに着いた。

道を挟んで反対側にはチベット自治区公安庁がある。さらに奇妙なことに、公安庁の入り口には十数人の警官がいたが、立って眺めているだけなのだ。道を隔ててこちら側では、チベット人たちが破壊や放火をしている。回族の肉屋2軒を破し、車両7台が放火されていたのを覚えている。しかし、警官たちは、関係ないかのように何もしない。通りには見物人も多かった。みんな通りで見物しながら、話をしていた」

「まったく何もしない? なぜ?」
私は尋ねた。

「知るものか。そう、写真を撮っている警官はいた。ああ、それにビデオを撮っている警官もいた」
WDは回想を続けた。
「今思うと、本当に不思議だ。道を1本挟んでいるだけで、まるで別々の2つの世界だった。今でもわからないのだが、バルコル街の中の特警はなぜ射殺なんてしたのだろう? そして、バルコル街の外の警官たちはなぜ群衆をまったく制止しなかったのだろう? しばらくすると、3両の戦車が江蘇路の方からやって来て、リンコル東路に到着した。戦車に乗っていた軍人たちは全員が銃を携えていた」

「戦車?」
私は半信半疑だった。
「戦車だった? 装甲車ではなく? 政府当局は、ラサでは戦車は投入しなかったと言ってるわ」

「もちろん戦車だ。後になって装甲車も来た」
WDは言い切った。
「戦車と装甲車の区別がつかないとでも? キャタピラーの付いた戦車だよ。近づいてくると、辺りの地面が震えるんだ。戦車が来るのが見えると、見物人たちはみんな逃げ出した。私も逃げたよ。でも、近くにあった自分の部屋には帰らず、真っすぐ左側に入った。その辺りに友だちが住んでるんだ」

「戦車は何かした?」
また彼の回想を遮った。私の脳裏には、1989年6月4日、解放軍の戦車が北京の路上で民衆や学生を踏みつぶしたシーンが浮かんでいた。

「戦車が何をしたのかは知らない。ひたすら逃げていたからだ」
WDは言った。
「友だちの家に逃げ込むと、彼も外から戻ったばかりだった。ふたりともひどくショックを受けており、酒でも飲んで落ち着こうということにした。私は白酒は飲まないので、酒といえばビールしか飲めない。しかし、彼のところには青海省互助のチンコー酒が数瓶あるだけだった。その後、2人の友人が来た。1瓶また1瓶と空けていき、夜11時過ぎには、みんな酔っぱらった。とはいえ、飲み過ぎたというほどではなく、なんだか勇気が湧いてきた。そして、なんとしても自宅に帰りたくなった。

私たち3人は江蘇路の交差点まで歩いたところで、足がすくんだ。酔いもすっかり醒めてしまった。40〜50人もの兵士が立っていたからだ。銃を携え、ゴム製警棒や電気ショック棒のようなものを持っている兵士もいる。私たちは立ち止まって身分証を見せるよう命じられた。幸いみんなの財布の中には身分証があり、兵士はただ『行け』と言っただけだった。

しかし、友人のひとりが一言多かった。『身分証はあるんだ。どんな根拠で私たちを罵るんだ?』。万事休すだった。兵士が飛んできて私たちに殴りかかった。2人に腕を押さえられ、2人に顔を乱打された。私は目をひどく殴られて腫れあがってしまった。そんなに殴られたら失明してしまうと思ったほどだ。兵士たちは私たちが起ち上がれなくなるまで蹴り倒して罵り……(この部分省略)……派出所に連行した。

警官が2人来て、写真を撮り、身分証を記録した。取り調べの時、ひとりのチベット人警官がチベット語で『あまり喋るなよ』と言った。その声が荒っぽかったため、きっと漢人の警官には、私たちを罵っているように聞こえただろう。こんな時にチベット人を助けてくれる警官がいるとは意外だった。酔っぱらい3人を調べても何も出ないということだろう。結局私たちは放免された。幸いにも、私の部屋は派出所から遠くはない。帰る途中ずっと発砲音が聞こえていた。私にはわからない。いったい本当はどれだけの人々があの少女のように殺されたのか、本当にわからないのだ」

「友人2人の家は社会科学院の方にあるため、帰らずに私の部屋に泊まった。しかし、4日も泊まることになろうとは思わなかった。15日午前中、食べ物や飲み物、タバコを買おうと思い、外に出るや後悔した。路上は兵士だらけだった。銃や尖った部分のないつるはしを持っている者もいた。引き返そうとしたとき、10メートルほど先で、7〜8歳の男の子が兵士に石を投げた。兵士は即座に催涙弾を発射し、一瞬のうちに人々は逃げ回った。私はもう外出しないことにした。

幸い私が借りていたのは、以前ある企業が倉庫として使っていた部屋だったため、兵士に調べられることもなかった。しかし、建物の屋上にも、中庭にも軍人がいるし、軍の車両も多かった。丸4日間、私たちはカーテンを下ろして、部屋でテレビで見ているか、寝て過ごした。初めのうちはまだ会話があったが、次第に口数が減り、ひとりでそれぞれ考え込むようになった。昼間、耐えきれずにカーテンを明けて外を見てみたが、いつ見ても、見えるのは兵士の姿だった。日が暮れると、灯りもつけず、テレビもつけないようにした。暗闇の中で、物音をたてずに座っていると、たまらなく腹が減ってきた……」
「で、何を食べたの?」
尋ねないではいられない。

「ああ、幸い、牛乳は1箱買ってあった。正月に帰省したときに持ってきたパレー(パン)もあった。普段は食べようとも思わない。ラサには食堂がたくさんあるから、家でパレーなんて食べないんだ。だからカビが生えてしまっていた。しかし、その時は、牛乳とパレーを食べなければならず、カビを取り除いて、ミルクと一緒に飲み込んだ。ひどい味だったよ。でも、そんなことは気にしていられない。

さっきも言ったように、借りていたのが会社の部屋だったのは幸運だった。後で聞いた話では、広い敷地の部屋を借りていた友だち3人はすべて捕まった。スローガンを叫んだわけでもないし、石を投げたわけでもない。見物さえしていなかったのに、捕まってしまったんだ。逮捕の理由というのが可笑しんだ。ひとりはかなりの長髪で、カムパのような風貌だから。もうひとりは髪がとても短く、いかにも僧侶のように見えるから。3人目は、ええっと、金歯を入れているからだ」

「金歯?」
私は驚いて、即座に聞き返してしまった。

「ああ。ご存知のように、カムやアムドには、金歯を好む人が多い。今回の事件を起こしたチベット人の中には、カムやアムドの人たちが少なくない。だから、金歯だと捕まるんだ。カムパかアムド人だと疑われるんだろう。私はそれが捕まった理由だと聞いた。彼らが今どうしているのか、私にはわからない。

私が部屋を借りている会社の管理人は非常に神経質になっていた。彼はラサの人だが、えらく気が小さいんだ。毎晩静々と部屋にやって来て、灯りを付けないように言っていたが、そのうち私を追い出しそうとした。借りた期限の3カ月がまだ来ていないのだから、金を返して証明書を出してほしいと、私は主張した。彼はなんとしても私を追い出したがった。そして、19日、私は不承不承部屋を出た。2人の友だちの別れを告げ、別々の道を歩んでいる」

「私は近所の友人の家に3日間泊まった。鉄道の切符の販売が始まったと聞き、すぐ駅に向かった。駅までの道中は、友人の家から2キロほどしかないというのに、銃と警棒を携えた兵士たちに7回も検問を受けた。彼らはみんな四川方言を話していた。小柄で痩せていて、ネズミのようだった。しかし、彼らは虎よりも恐ろしいのだ」

「彼らは私の身分証と臨時居住証を何度もチェックした。もし写真と似ていないとなれば、即座に捕まってしまうだろう。携帯電話の中のメールや写真まで細かく調べられた。幸い、私の携帯電話は写真が撮れない。荷物も広げて調べられた。荷物の中に、小さなアルバムがあった。彼らはアルバムを広げ、1枚1枚写真を見た。不思議なのは、シャツの袖をめくらせて、腕を何度か前後に振らせたことだ。なぜだろう? 数珠でも探しているのだろうか? もし腕に数珠をしていて、僧侶でなければ、仏教徒だ。後に、これが理由で捕まった人がいると聞いた。結局、私は立ち席の切符を買い、汽車に乗り込むことができた。これで一安心と思ったら、また十数人の警官がやって来た。大勢で取り囲んで、私ひとりをチェックしているのだ。私だけを調べて、車両に大勢いる漢人は調べない。さらに私の荷物を引っ掻き回している。私は怒りに震えて、もう少しで爆発しそうになった」

「爆発しなくてよかったわね」
私は太い眉毛と大きな瞳を持つ若きアムド人を見つめた。彼はなんとか耐え抜いたのだろう。
「何が言いたいのかはわかるよ」
彼は言った。
「私は難民のようなもので、一刻の猶予もない。何があっても逆らうわけにはいかない。そう思うんだろ?」
「その通り」と私は答えた。

WDはうつむき、頭を上げて辺りを見回した。そして、再びうつむいた。しばらく後、弱々しい声で言った。
「本当はすごく後悔している。ずっと後悔してばかりだ。あの少女が殺されるのをこの目で見てから、後悔し始めたんだ。でも、どんなに後悔しても、私には何もできない。耳の奥からいつも“サプ・サプ・チェ”(気をつけて)という声が聞こえるんだ」

ここでWDの回想は終わった。立ち上がって、去って行く時、彼は何度も“サプ・サプ・チェ”と繰り返した。私は何とも言えない切ない気持ちになった。彼は明らかにまだおびえている。しかし、恐怖のあまり口をつぐむのではなく、私が記録し、恐怖に満ちた体験を公にすることを許してくれた。なぜだろう?

私はアウンサン・スーチーが恐怖と自由について書いた文章を読んだことがある。その中で彼女は、抑圧から自由になるために勇気を振り絞る人々を、詩で表現した。あらためて読み返してみて、それがチベット人にとっても真実であることがわかった。

私たちはエメラルドの静けさ。
手ですくった水のようなものかもしれない。
しかし、手のひらの上にあるのは、
実はガラスのかけらかもしれない。

[長田訳注:詩の原文は
 Emerald cool we may be
 As water in cupped hands
 But oh that we might be
 As splinters of glass
 In cupped hands...
→よくわからないんですが、
ビルマ民主化運動は手応えのない水のようなものかもしれないが、実は軍事政権の手のひらにあるのは、一つひとつが硬くて尖ったガラスのかけらたちかも」
というぐらいの意味でしょうか。正式な訳文をご存知の方がいらっしゃったらご教示下さい]

2008年6月1日、北京にて 

 

消されゆくチベット (集英社新書)

消されゆくチベット (集英社新書)

 

 

 

ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(1)DZ編

オリンピックが開催されている北京で、
当局に監視されながら、中国語のブログで思いを綴り続けている
チベット人女性作家ツェリン・ウーセル(中国名は唯色)。
看不見的西蔵〜唯色 Woeser's blog

 ↓先日、中日新聞東京新聞)にもインタビューが掲載された。
中国・チベット暴動 その後 チベット人女性作家 ツェリンウォセ氏中日新聞、2008年8月17日)
↓あともうひとつ
ただ独りのチベットの声、今なお語らんとすワシントンポストチベットハウスのHP)

f:id:ilovetibet:20190503030803j:plainここでは、彼女が記録した、2人のチベット人の証言を紹介する。
まず1人目。ラサから北京に逃げ、どこかの国へ逃げようとしているDZ(もちろん仮名)の証言だ。

原文は
在北京看見拉薩的恐懼(一)(2008.06.21)
英文は
The Fear in Lhasa, as Felt in Beijing(2008.08.03)

 翻訳は基本的には中国語ベースで、
よくわかんないところは英語も参考にしつつ。
急いでやったので、正確さは90%くらい。
長いです。

 ■ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(1)DZ編

 DZに会ったのは4月のある日だった。彼は明りの灯り始めたばかりの賽特商場近くの街角に立ちつくして、絶え間なく行き交う車と人の流れをぼんやりと眺めていた。ラサから来て、めったに外出しない彼のようなチベット人がいるという話は、以前JMから聞いていた。DZは仲間の催すパーティーにも出たことがない。典型的なチベット人そのものの風貌が、昨今の北京では注目の的となってしまうからだ。誇張ではない。最も初期のチベット人共産党員プンツォク・ワンギェル氏でさえ、外出すれば、北京の若者たちに指をさされ、こう言われるのだ。
「あいつを見ろよ。チベット独立派か、そうでなければ、新疆独立派だ」

名前を呼ばれたDZが、かなりぎょっとした様子を見せたのには、私のほうが驚かされた。思いがけず彼と出くわしたJMは、さっそくカフェへと誘った。そもそも私がJMに会うことにしたのは、何日かしたらチベットへ帰ると聞いたからだ。JMはここ数年、北京で仕事をしていたが、民族を理由に辞職を強いられた。JMによれば、同じく8人のチベット人が辞めさせられたという。それは社長のせいではなく、警察当局からの圧力が強まったからだ。帰れというなら帰るしかない。20年前の3月、去る3月と同様に、ラサで多くのチベット人が起ち上がった。当時10代だったJMは商店の戸口に放火し、4年間獄中で過ごした。こうした経歴があるため、JMはそれほど気に留めていなかった。

 JMとは違い、DZは無遠慮にチベット語を話そうとはしなかった。この思いがけない誘いに乗り気でないようにも見えた。しかし、なぜ拒まなかったのだろう? 私は静かに彼を観察した。遊牧民のような長い髪をたたえた、このチベット人は、黒い衣服に身を包んでも隠せない孤独を漂わせた、このチベット人は、今この時、同じ民族の仲間と一緒にいることを求めているように思えた。

カフェにはチベット語のわかる者は他にだれもいない。しかし、私にはなおためらいがあり、ラサで起こったことをDZになかなか尋ねられなかった。DZにはかつての貴族のような、ある種の気風が感じられたため、私はこんな冗談を言った。
「あなたは私たちの中で一番チベット人らしいわ。もしチベット服を着れば、“チツォク・ニンパ”(旧社会)のチベット人そのものね」
JMは笑って、色白でやせている自分は完全に民衆に紛れ込めそうだと言った。
するとDZが突然口を開いた。
「今でも度々ラサの夢を見るよ。いたるところ銃を構えた軍人だらけだ。北京の街を歩いていて、武装警察や警官を目にすると、無性に怒りと恐怖がこみあげてくるんだ」
DZは窓の外を眺めながら穏やかにそう言った。話す気になったようだ。

「外国人旅行者をダム(樟木)に迎えに行き、ギャンツェまで来ていた。ちょうど3月14日のことだ。移動中に受けた電話で、ラサで事件が起こったと聞いた。ラモチェ(小昭寺)周辺でチベット人たちが抗議行動を起こしたという。初めはラサに戻らず、ギャンツェにいたほうがいいという話だったが、また電話があり、帰ってこいと言われた。ラサに着くと、私は急いで旅行客をホテルに送りとどけた。

午後のことだ。ラサの東側では、商店が壊され、車が燃やされていた。郵便局の方に走っていくと、多くの人々が路上で、チベット人たちの抗議行動を見ていた。この数時間、チベットは独立したかのようにも思えた。しばらくすると、装甲車が数台やって来るのが見えた。“タンタンタン”と催涙弾が発射され、人々は散り散りに逃げ出した。経験のある者は、商店の水道で目を洗った。私は喉をやられただけのようだ。涙が止まらなかった……」

「発砲するのは見た?」

「私は見ていない。しかし、友人はラサ中学のあたりで、男性が射殺されるのを見た。チベット人だ」
DMは額を指して、話を続けた。

「私は急いで家に帰った。疲れていたし、怖かったので、横になるなり眠ってしまった。しかし、翌日は、外国人旅行客の面倒を見なければならない。家から一歩出るや、足がすくんだ。目の前が軍人だらけだったからだ。警棒を持っている者もいれば、銃を持っている者もいる。引き返したかったが、兵士が大声で私に向かって怒鳴った。『来い!』。いやでも行くしかない。2人の兵士が、私に両手を挙げるように命じた。投降したように両手を挙げさせられて、身体検査をされた。ぞっとしたよ。上着のポケットにお守りが入っていたからだ」

DZは上着からお守りを出して、私たちに一瞬見せた。“スンドゥ”(お守りの紐)に加えて“テンスン”(護符)があることがわかった。テンスンはダライ・ラマ法王が特別に加持をした神聖なものだ。魔除けの意味を持つ、チベット人にとっては非常に大切なお守りだ。

「クンドゥン(ダライ・ラマ法王)のバッジも付けていた。もし兵士に見つかれば、命はないだろう。心の中でクンドゥンに祈り続けた。クンドゥンは守ってくれたんだ。兵士はポケットを何度か探ったが、何も見つからなかった。そして兵士は叫んだ。『行け!』」

DZの幸せそうな表情には感激があふれていた。もちろんそれはダライ・ラマに対する感謝の気持ちだった。彼は祈った。そして祈りは叶えられたのだ。

私は尋ねた。
「軍人はチベット人の首を調べると聞いたことがある。“スンドゥ”にクンドゥンのバッジが付いていると、引きちぎって投げ捨てると。そうなの?」

「ああ。地面に投げ捨てた後、チベット人に踏ませるんだ。拒めば、捕まってしまう。手首に数珠を巻いていて、それが兵士に見つかって捕まった若者もいる」
DZは左手首の数珠を指差した。

「それは男性だけ? あなたのように、投降したように両手を挙げて調べられるのは」
DZは私の目を見て、ゆっくりと言った。

「いや、男だけじゃない。男も女も、老いも若きも、チベット人であるというだけで、すべて私のように両手を挙げさせられて検査される。わかるだろ? 私たちはそんな侮辱をこれまで受けたことはない。チベット人が一人ひとり投降したように手を挙げさせられ、銃を構えた軍人たちに体を調べられる。老人も、女性や子どもも見逃してくれない。そういうシーンを映画で見たことがある。日本鬼子が中国を侵略する映画や、国民党が共産党を攻撃する映画で見たのと、そっくりなことが目の前で起こった」
私もまたDZの細い目を見た。その瞳の奥は屈辱に満ちていた。

私は叔父の話をしないわけにはいかなかった。8年前[訳注:間違いかも]のラサ、チベット人たちは今日と同様に抗議行動を進めていたが、後に鋼鉄のヘルメットをかぶった胡錦濤率いる兵士たちに鎮圧されただけでなく、戒厳令まで敷かれた。ある日、叔父は通勤時に通行証を持って行くのを忘れたため、軍人に身体検査された。彼もまた両手を挙げさせられたのだ。叔父はこのことに強くショックを受け、以来、この話をする度に腹を立ててむせび泣いていた。彼は1950年代初頭に中国共産党に追随した、初期の党員であり御用学者であった。しかし、その事件以来、チベット人である以上、永遠に信頼されることはないのだと悟った。

少し興奮していたのだろう。私の声のトーンは高くなりがちだった。DZは神経質そうに辺りを気遣っていた。少し時間をおいて彼は話を続けた。

「私が借りていた部屋も調べれられた。幸運にも、私はお客と一緒にホテルに泊まっていた。部屋にはタンカ[仏画]が1枚ある。これはダライ・ラマの肖像だが、伝統的なタンカの様式で描かれたものだ。後で近所の人に聞いた話では、捜査は2回あったという。1度は武装警察、もう1度は居民委員会の幹部によるものだった。武装警察は、そのタンカが観音菩薩のようにダライ・ラマを描いたものだとわからなかったため、何事もなかった。居民委員会の幹部はもちろん知っているから、きっと写真を撮って記録したはずだ。また、私はチベットの貨幣を集めていて、ガイドをした旅行者からもらった各国のコインと一緒に小さな箱に入れておいた。この箱は持って行かれてしまった。武装警察なのか居民委員会幹部なのかはわからない。こそ泥みたいなやつらだ」


「もうラサにはいられない。どこかへ行かなければ、捕まってしまうだろう。少なくとも、5人のツアーガイドが捕まったと聞いていた。そのとき、ホテルで中央電視台の記者たちと知り合った。彼らが私たちを助けてくれた。ラサを発つ時、一緒に連れて行ってくれたのだ。私は見た目がこうだから、途中に何カ所もある軍人の検問を通過するのは難しいが、私は撮影スタッフだと記者たちが言ってくれた。私たちは一緒に鉄道駅に向かった。駅では、髪の短いチベット人の若者が捕まるのを見た。おそらく僧侶だろう」

「列車は沱沱河駅でしばらく停まった。窓の外には大量の軍の車両や軍人が見えた。中央電視台の記者は面白いと思ったのか、カメラを取り出して撮影し始めた。すると、軍人が数人ただならぬ様子でやって来て、すべてのビデオを削除しただけでなく、記録をとった。もしチベット人が撮影していたら、間違いなく捕まっていただろう。西寧に着いたが、ホテルが、チベット人は泊めてやらないという。記者たちの助けで、私と2人のアムドのモーラ(おばあさん)は、なんとか眠れる部屋を確保することができた」

「北京に着いたばかりの数日間、街を歩いていると、どこから来たのかと聞かれたものだ。正直にチベット人だと答えると、彼らはテロリストに出くわしたかのように顔色を変えた。武装警察に尋問されたこともある。だから、用事がないかぎり外出しないようになり、退屈してしまった。テレビを見れば、チベット人が破壊や略奪、放火をする場面ばかり流れる。ラサやその他のチベット人地域がどのように軍人たちの管制下に置かれ、どれだけのチベット人が殺され、捕らえられたのかは伝えられたことがない。あんな当局の言っていることはすべて嘘だ。軍隊は発砲していないとか、軍隊が来たのは町の清掃のためだとか。ああ、たしかに、彼らは掃除に来たさ。私たちチベットを片付けに来たのだ。私たちは、彼らの目にはゴミに見えるのだ」

DZは軽く笑った。しかし、その笑い声の中には、怒りと絶望が垣間見えた。しばらく、沈黙が続いた。窓の外を、欧米人が数人通り過ぎた。その振る舞いは、すべての毛穴の一つひとつから自由の空気を発散しているかのようだ。それは何も怖れずに思うがままでいられる気分であり、もう怖れるものはないのだという自由だ。DZは北京に逃げてきて、恐怖の日々を耐え忍びながら、ある大使館の許可を辛抱強く待っているところだ。

カフェを出たのは、かなり遅い時間だったことを覚えている。灯りはさらに明るくなり、中国人たちはまだひっきりなしに動き回っている。誰よりもチベット人らしいDZが突然、手のひらを広げて小声で言った。
チベット人だとわかってしまうのが怖いから、もう付けないようにする」
彼の手のひらには、小さなトルコ石のイヤリングがあった。

2008年4月、北京にて

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