チベット式

チベットの今、そして深層 by 長田幸康(www.tibet.to)

ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(1)DZ編

オリンピックが開催されている北京で、
当局に監視されながら、中国語のブログで思いを綴り続けている
チベット人女性作家ツェリン・ウーセル(中国名は唯色)。
看不見的西蔵〜唯色 Woeser's blog

 ↓先日、中日新聞東京新聞)にもインタビューが掲載された。
中国・チベット暴動 その後 チベット人女性作家 ツェリンウォセ氏中日新聞、2008年8月17日)
↓あともうひとつ
ただ独りのチベットの声、今なお語らんとすワシントンポストチベットハウスのHP)

f:id:ilovetibet:20190503030803j:plainここでは、彼女が記録した、2人のチベット人の証言を紹介する。
まず1人目。ラサから北京に逃げ、どこかの国へ逃げようとしているDZ(もちろん仮名)の証言だ。

原文は
在北京看見拉薩的恐懼(一)(2008.06.21)
英文は
The Fear in Lhasa, as Felt in Beijing(2008.08.03)

 翻訳は基本的には中国語ベースで、
よくわかんないところは英語も参考にしつつ。
急いでやったので、正確さは90%くらい。
長いです。

 ■ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(1)DZ編

 DZに会ったのは4月のある日だった。彼は明りの灯り始めたばかりの賽特商場近くの街角に立ちつくして、絶え間なく行き交う車と人の流れをぼんやりと眺めていた。ラサから来て、めったに外出しない彼のようなチベット人がいるという話は、以前JMから聞いていた。DZは仲間の催すパーティーにも出たことがない。典型的なチベット人そのものの風貌が、昨今の北京では注目の的となってしまうからだ。誇張ではない。最も初期のチベット人共産党員プンツォク・ワンギェル氏でさえ、外出すれば、北京の若者たちに指をさされ、こう言われるのだ。
「あいつを見ろよ。チベット独立派か、そうでなければ、新疆独立派だ」

名前を呼ばれたDZが、かなりぎょっとした様子を見せたのには、私のほうが驚かされた。思いがけず彼と出くわしたJMは、さっそくカフェへと誘った。そもそも私がJMに会うことにしたのは、何日かしたらチベットへ帰ると聞いたからだ。JMはここ数年、北京で仕事をしていたが、民族を理由に辞職を強いられた。JMによれば、同じく8人のチベット人が辞めさせられたという。それは社長のせいではなく、警察当局からの圧力が強まったからだ。帰れというなら帰るしかない。20年前の3月、去る3月と同様に、ラサで多くのチベット人が起ち上がった。当時10代だったJMは商店の戸口に放火し、4年間獄中で過ごした。こうした経歴があるため、JMはそれほど気に留めていなかった。

 JMとは違い、DZは無遠慮にチベット語を話そうとはしなかった。この思いがけない誘いに乗り気でないようにも見えた。しかし、なぜ拒まなかったのだろう? 私は静かに彼を観察した。遊牧民のような長い髪をたたえた、このチベット人は、黒い衣服に身を包んでも隠せない孤独を漂わせた、このチベット人は、今この時、同じ民族の仲間と一緒にいることを求めているように思えた。

カフェにはチベット語のわかる者は他にだれもいない。しかし、私にはなおためらいがあり、ラサで起こったことをDZになかなか尋ねられなかった。DZにはかつての貴族のような、ある種の気風が感じられたため、私はこんな冗談を言った。
「あなたは私たちの中で一番チベット人らしいわ。もしチベット服を着れば、“チツォク・ニンパ”(旧社会)のチベット人そのものね」
JMは笑って、色白でやせている自分は完全に民衆に紛れ込めそうだと言った。
するとDZが突然口を開いた。
「今でも度々ラサの夢を見るよ。いたるところ銃を構えた軍人だらけだ。北京の街を歩いていて、武装警察や警官を目にすると、無性に怒りと恐怖がこみあげてくるんだ」
DZは窓の外を眺めながら穏やかにそう言った。話す気になったようだ。

「外国人旅行者をダム(樟木)に迎えに行き、ギャンツェまで来ていた。ちょうど3月14日のことだ。移動中に受けた電話で、ラサで事件が起こったと聞いた。ラモチェ(小昭寺)周辺でチベット人たちが抗議行動を起こしたという。初めはラサに戻らず、ギャンツェにいたほうがいいという話だったが、また電話があり、帰ってこいと言われた。ラサに着くと、私は急いで旅行客をホテルに送りとどけた。

午後のことだ。ラサの東側では、商店が壊され、車が燃やされていた。郵便局の方に走っていくと、多くの人々が路上で、チベット人たちの抗議行動を見ていた。この数時間、チベットは独立したかのようにも思えた。しばらくすると、装甲車が数台やって来るのが見えた。“タンタンタン”と催涙弾が発射され、人々は散り散りに逃げ出した。経験のある者は、商店の水道で目を洗った。私は喉をやられただけのようだ。涙が止まらなかった……」

「発砲するのは見た?」

「私は見ていない。しかし、友人はラサ中学のあたりで、男性が射殺されるのを見た。チベット人だ」
DMは額を指して、話を続けた。

「私は急いで家に帰った。疲れていたし、怖かったので、横になるなり眠ってしまった。しかし、翌日は、外国人旅行客の面倒を見なければならない。家から一歩出るや、足がすくんだ。目の前が軍人だらけだったからだ。警棒を持っている者もいれば、銃を持っている者もいる。引き返したかったが、兵士が大声で私に向かって怒鳴った。『来い!』。いやでも行くしかない。2人の兵士が、私に両手を挙げるように命じた。投降したように両手を挙げさせられて、身体検査をされた。ぞっとしたよ。上着のポケットにお守りが入っていたからだ」

DZは上着からお守りを出して、私たちに一瞬見せた。“スンドゥ”(お守りの紐)に加えて“テンスン”(護符)があることがわかった。テンスンはダライ・ラマ法王が特別に加持をした神聖なものだ。魔除けの意味を持つ、チベット人にとっては非常に大切なお守りだ。

「クンドゥン(ダライ・ラマ法王)のバッジも付けていた。もし兵士に見つかれば、命はないだろう。心の中でクンドゥンに祈り続けた。クンドゥンは守ってくれたんだ。兵士はポケットを何度か探ったが、何も見つからなかった。そして兵士は叫んだ。『行け!』」

DZの幸せそうな表情には感激があふれていた。もちろんそれはダライ・ラマに対する感謝の気持ちだった。彼は祈った。そして祈りは叶えられたのだ。

私は尋ねた。
「軍人はチベット人の首を調べると聞いたことがある。“スンドゥ”にクンドゥンのバッジが付いていると、引きちぎって投げ捨てると。そうなの?」

「ああ。地面に投げ捨てた後、チベット人に踏ませるんだ。拒めば、捕まってしまう。手首に数珠を巻いていて、それが兵士に見つかって捕まった若者もいる」
DZは左手首の数珠を指差した。

「それは男性だけ? あなたのように、投降したように両手を挙げて調べられるのは」
DZは私の目を見て、ゆっくりと言った。

「いや、男だけじゃない。男も女も、老いも若きも、チベット人であるというだけで、すべて私のように両手を挙げさせられて検査される。わかるだろ? 私たちはそんな侮辱をこれまで受けたことはない。チベット人が一人ひとり投降したように手を挙げさせられ、銃を構えた軍人たちに体を調べられる。老人も、女性や子どもも見逃してくれない。そういうシーンを映画で見たことがある。日本鬼子が中国を侵略する映画や、国民党が共産党を攻撃する映画で見たのと、そっくりなことが目の前で起こった」
私もまたDZの細い目を見た。その瞳の奥は屈辱に満ちていた。

私は叔父の話をしないわけにはいかなかった。8年前[訳注:間違いかも]のラサ、チベット人たちは今日と同様に抗議行動を進めていたが、後に鋼鉄のヘルメットをかぶった胡錦濤率いる兵士たちに鎮圧されただけでなく、戒厳令まで敷かれた。ある日、叔父は通勤時に通行証を持って行くのを忘れたため、軍人に身体検査された。彼もまた両手を挙げさせられたのだ。叔父はこのことに強くショックを受け、以来、この話をする度に腹を立ててむせび泣いていた。彼は1950年代初頭に中国共産党に追随した、初期の党員であり御用学者であった。しかし、その事件以来、チベット人である以上、永遠に信頼されることはないのだと悟った。

少し興奮していたのだろう。私の声のトーンは高くなりがちだった。DZは神経質そうに辺りを気遣っていた。少し時間をおいて彼は話を続けた。

「私が借りていた部屋も調べれられた。幸運にも、私はお客と一緒にホテルに泊まっていた。部屋にはタンカ[仏画]が1枚ある。これはダライ・ラマの肖像だが、伝統的なタンカの様式で描かれたものだ。後で近所の人に聞いた話では、捜査は2回あったという。1度は武装警察、もう1度は居民委員会の幹部によるものだった。武装警察は、そのタンカが観音菩薩のようにダライ・ラマを描いたものだとわからなかったため、何事もなかった。居民委員会の幹部はもちろん知っているから、きっと写真を撮って記録したはずだ。また、私はチベットの貨幣を集めていて、ガイドをした旅行者からもらった各国のコインと一緒に小さな箱に入れておいた。この箱は持って行かれてしまった。武装警察なのか居民委員会幹部なのかはわからない。こそ泥みたいなやつらだ」


「もうラサにはいられない。どこかへ行かなければ、捕まってしまうだろう。少なくとも、5人のツアーガイドが捕まったと聞いていた。そのとき、ホテルで中央電視台の記者たちと知り合った。彼らが私たちを助けてくれた。ラサを発つ時、一緒に連れて行ってくれたのだ。私は見た目がこうだから、途中に何カ所もある軍人の検問を通過するのは難しいが、私は撮影スタッフだと記者たちが言ってくれた。私たちは一緒に鉄道駅に向かった。駅では、髪の短いチベット人の若者が捕まるのを見た。おそらく僧侶だろう」

「列車は沱沱河駅でしばらく停まった。窓の外には大量の軍の車両や軍人が見えた。中央電視台の記者は面白いと思ったのか、カメラを取り出して撮影し始めた。すると、軍人が数人ただならぬ様子でやって来て、すべてのビデオを削除しただけでなく、記録をとった。もしチベット人が撮影していたら、間違いなく捕まっていただろう。西寧に着いたが、ホテルが、チベット人は泊めてやらないという。記者たちの助けで、私と2人のアムドのモーラ(おばあさん)は、なんとか眠れる部屋を確保することができた」

「北京に着いたばかりの数日間、街を歩いていると、どこから来たのかと聞かれたものだ。正直にチベット人だと答えると、彼らはテロリストに出くわしたかのように顔色を変えた。武装警察に尋問されたこともある。だから、用事がないかぎり外出しないようになり、退屈してしまった。テレビを見れば、チベット人が破壊や略奪、放火をする場面ばかり流れる。ラサやその他のチベット人地域がどのように軍人たちの管制下に置かれ、どれだけのチベット人が殺され、捕らえられたのかは伝えられたことがない。あんな当局の言っていることはすべて嘘だ。軍隊は発砲していないとか、軍隊が来たのは町の清掃のためだとか。ああ、たしかに、彼らは掃除に来たさ。私たちチベットを片付けに来たのだ。私たちは、彼らの目にはゴミに見えるのだ」

DZは軽く笑った。しかし、その笑い声の中には、怒りと絶望が垣間見えた。しばらく、沈黙が続いた。窓の外を、欧米人が数人通り過ぎた。その振る舞いは、すべての毛穴の一つひとつから自由の空気を発散しているかのようだ。それは何も怖れずに思うがままでいられる気分であり、もう怖れるものはないのだという自由だ。DZは北京に逃げてきて、恐怖の日々を耐え忍びながら、ある大使館の許可を辛抱強く待っているところだ。

カフェを出たのは、かなり遅い時間だったことを覚えている。灯りはさらに明るくなり、中国人たちはまだひっきりなしに動き回っている。誰よりもチベット人らしいDZが突然、手のひらを広げて小声で言った。
チベット人だとわかってしまうのが怖いから、もう付けないようにする」
彼の手のひらには、小さなトルコ石のイヤリングがあった。

2008年4月、北京にて

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