チベット式

チベットの今、そして深層 by 長田幸康(www.tibet.to)

チベット・アムド地方ンガバ(Ngaba)小紀行(1)

1週間だけ休みをとったのでラサに行こうと思ったら、
見事に入域許可証の発給を拒否されてしまったため、
とりあえず四川省成都まで飛び、さて、どうしようか。
というわけで、アムド地方のアバ周辺にちょっとだけ行ってきた。

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微妙な時期の、微妙な地域のため、細かいことは書かないでおく。
ルートぐらいはいいだろう。
成都→バルカム(馬爾康)→ンガバ→茂県→成都
チベット人も一緒です。
写真はアバの町にある大僧院キルティ寺の入り口に建てられた公安。
昨年、弾痕の残る血まみれ遺体写真が流出した、あの寺だ。

検問もあったし、いろいろと物騒だった。
しかし、意外に何事もなく穏やかな1週間だった。

ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(2)WD編

チベット人女性作家ツェリン・ウーセル(中国名は唯色)による、チベット人の証言の記録の後編。
アムド出身のWD(仮名)の証言。
前編は↓
ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(1)DZ編

f:id:ilovetibet:20190503031941j:plain原文は
在北京看見拉薩的恐懼(二)(2008.07.04)
英文は
The Fear in Lhasa, as Felt in Beijing(2008.08.03)

 
翻訳は基本的には中国語ベースで、
よくわかんないところは英語も参考にしつつ。
急いでやったので、正確さは90%くらい。
すごく長いです。

ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(2)WD編

4月のある日、公衆電話でアムドとカムの友人に電話した。安否を尋ねると、幸いにも2人とも無事である。少々おかしくもあり、悲しくもあったのは、2人は別々のチベット人地域に住んでいるのに、2人とも何度も「サプ・サプ・チェ」(気をつけてね)と繰り返していたことだ。去年のロサル(チベット暦の新年)にラサにいた時のことを思い出す。酒が入って初めて本音を漏らした友人がこう言ったのだ。
「今では“タシデレ”なんてあいさつはしない。すでにタシ(吉祥)でもデレ(幸運)でもないからだ。お互いに“サプ・サプ・チェ”と声を掛け合わなければならないんだ」

WDも、別れるときには“サプ・サプ・チェ”と言い残して、人混みに消えて行った。彼はチベット服を着なくても、一目でチベット人だとわかる。私は最近知り合ったばかりで、かれこれ3度会ったことがある。しかし、あまり詳しくは書けない。彼は再三こう言っていたからだ。
「私が誰だか書かないでくれ。まだラサに帰りたいんだ。身分証は登録されているし、写真も撮られている。誰なのかは書かないでくれ。書かれると、見つかってしまうだろう」

彼はハンサムなアムドの若者だ。しかし、眉間に寄った皺に、その重々しい心持ちが表われている。彼は頻繁に、おびえたように突然周囲を見回すことがある。にもかかわらず、彼は私の取材のお願いに快く応じてくれた。私たちが出会ったのは偶然だった。その偶然は、まるで運命のように思えた。あの場所で、あの時刻に思いがけず会ったことは、あたかも彼がその経験を私に話して聞かせたがっているかのようだった。しかし、再会はうまくいかなかった。私たちはすぐ別れてしまった。他の人たちが一緒にいたからだ。慎重を期した3度目の機会。別の誰かの注意を引かないよう気を配り、私は完璧な記録をとることができた。

ある日の午後、私たちが選んだのは、窓からもドアからも遠く、何かおかしなことがないか注意を払える、角のテーブルだった。椅子の背もたれは高く、人に見れれることもない。周囲にいるわずかな人々はマージャンやトランプに興じており、他人は関心がなさそうだ。私が記録の準備を終えたのを見て、WDは話し始めた。

「3月10日のことから話そう。あの日の午後5時前後、マケアメ(バルコル南街と東街の角にあるチベット料理レストラン)に行ったんだ。するとすぐに、友だちがやって来て、ツクラカン(大昭寺)広場で事件が起こったと言う。駆けつけてみると、8人が捕まって警察の車に乗せられるのが見えた。4人はクシャプ(僧侶)。他の4人は、カムパだったという者もいるし、アムド人だったという者もいるが、とにかくかなり若かった。その前に、すでに何人か僧侶が捕まっていたという人もいる。警官はバルコル派出所のやつらで、ずいぶん手荒だった。周りには大勢の人がいて、チベット人たちは小声で“ニンジェー、ニンジェー”(かわいそうに)と言っていた。泣いているモーラ(おばあさん)もいた。友だちが携帯電話で写真を撮ると、私服警官がやって来て、ひったくって行った。とても怖かったよ」

「翌日、バルコル街一帯は私服警官だらけになった。女性も30〜40人いた。ずいぶん髪が短く、全員が漢人だった。チベット人が話していると、近寄って来て聞き耳を立てる。話が理解できたのかどうかは知らないが、チベット人たちを怖がらせていた。彼らは昼食も夕食も広場で食べていた。弁当が車で届けられるんだ。日が暮れるとようやく去っていく。チベット人たちはみんな彼らが私服警官だと知っているから、お互い小声で注意し合っていた。警官も大勢いて、ただならぬ様子で行ったり来たりしていた。ああ、そうそう、デプン寺とセラ寺の僧侶たちがデモをして、大勢の武装警察に暴行され、引き返させられたと聞いた。ジョカン寺とラモチェ寺は閉鎖されていた」

「14日のことは、はっきり覚えている。午前11時20分、私たちは出発した……(この部分略)……その前に、すでに叫び声が聞こえていた」

私は話を遮った。
「テレビで聞いたわ。チベット人だけが、しかも田舎や草原のチベット人だけが出せる、あの声。町のチベット人にはもう出せない。喉が衰えてしまっているから」
さらに言えば、それは本来のチベット式の雄叫びだ。後の報道では“狼の遠吠え”と形容されていたけれど。

WDはうなずいた。
「そう、まさにその声だ。11時20分過ぎ、いつものように何人かの友人とラモチェ(小昭寺)に行った時、そこですでに事件は起こっていた。大勢のチベット人が気勢を上げ、兵士に石を投げつけていた。私たちはあっけにとられた。近くにいた人の話によると、ここ数日、寺の入り口に警察の車が停まっており、今さっき、僧侶たちが駆け出してきて、参拝者が境内に入るのを妨げていると言って、車をひっくり返したという。警察はすぐ電話で武装警察を呼び、盾と警棒を持った武装警察がやって来て、僧侶たちを殴りつけた。近くにいたチベット人たちは見るに見かねて、こうやって“起ち上がろう”と……チベット人が大勢いたが、みんな幼くて、ひどい格好をしていた。彼らは“ツァンパを食べる者は出て来い!”と叫んで石を投げていた。行商の男が加勢しようとしていたが、奥さんが力を振り絞って腕にしがみついて、行くなと泣いていた。女の子も大勢いて、私たちに向かって“あなたたち、それでもチベット人なの? チベット人ならこっちに来なさいよ”と言った。私たちが合流しないと知ると、地面につばを吐いて“ンゴツァ、ンゴツァ”(恥を知れ)と罵った。正直、私はとても辛かったけれど、参加はせず、ただ側で見ているだけだった。友人の中には、走って行って石を投げた者もいるけれど、また急いで戻ってきた」

「待って」
私は再び遮った。
「何か組織があったり、あらかじめ計画されていたことだと思う?」

「クンチョクスム(三宝に誓って)そうじゃない」
WDは悲しそうに首を振り、話を続けた。


「彼らが投げていた石は、付近の家を建てるためのものだ。ナイフを持っていた者もいたけれど、奇妙なのは、あれはチベットのナイフとは違い、長いナイフだった。どこで手に入れたのか、私にもわからない。カタを振り回していた者が多かったけれど、付近の商店から奪ったものだろう。いずれにせよ、カタはそうした商店にたくさんあった。それから彼らはラモチェからトムシカン(バルコル街の市場)へ流れた。途中、多くの漢人回族の商店が壊された。トムシカン商場も一部放火された。漢人はすべて逃げ、回族は白い帽子を脱いで逃げて行った。どういうわけか、警察がひとりもいなかった。みんな逃げてしまったんだ」

「でも、バルコル街一帯には、いたるところにビデオカメラがある。彼らは知らなかったの?」

「知ってるさ。ビデオカメラのことは多くの人が知っている。でも怖がってなんかいない」
WDは一瞬躊躇したようだが、しばらくしてこう言った。

「民族のためなら、彼らは本当にすごいんだ」
WDのこの言葉はとても印象に残っている。

「私はずっと後ろからついて行った。トムシカンからバルコル街へ向かう間に、人はどんどん増えた。100人ぐらいはいた。アムド人も、カムパも、ラサ人もみんないた。僧侶も何人かいた。群衆はバルコルを2周した。歩きながら、こう叫んでいた。『ギャワ・リンポチェ・クツェ・ティロ・テンパ・ショ』(ダライ・ラマ万歳)、『プゥ・ランツェン』(チベット独立)。その間に、漢人回族の商店が破壊された。ある商店からはカラフルなシルクやサテンの生地が放り出され、地面にばらまかれた。ジョカン寺をはさんで反対側にあるバルコル派出所に放火した者もいるが、たいして燃えなかった。私は北京のJMに電話をした。その知らせに彼はとても興奮していた。1988年3月にも同じことが起こったからだ。当時JMは10代で、商店の門戸に放火して4年間投獄された。おそらく午後3時近くか、3時少し過ぎ、黒い服を着た人々が現れた。顔を覆い、目だけを出している。彼らは銃を構えた! そして発砲した!」

「その人たちは何?」
私は驚いて尋ねた。

「特警だよ! “飛虎隊”みたいな」

飛虎隊? 私は何だか知らないが、映画かテレビ番組に関係ありそうだ。しかし、特警なら知っているので、再び話を遮ることはしなかった。

「30〜40人、黒づくめで顔を覆い、目だけを出して、全員が銃を掲げていた。そのとき、私はバルコル北街の入り口にいて、彼らがツクラカン広場に向かうのが見えた。彼らは群衆の中に催涙弾を投げ、前面にいた人たちは押さえつけられて捕まった。そして、彼らは後ろにいた人々に発砲し、射殺した。私も、多くの人々も、おびえてバルコル街へ逃げ帰った。しかし、バルコル北街の入り口から遠くない所で、10代の少女が石を拾って投げようとしたそのとき、特警が彼女に発砲し、弾丸は喉に命中した。彼女はすぐ地面に倒れた。その時、私と彼女の間は十数メートルか20メートルで、はっきりと見えた。多くの人が目撃していた。本当に恐ろしかった……彼女はまだ17歳か18歳ぐらいだろう」

WDが震えているのがわかった。今なお恐怖は残っているだ。私も緊張し、その現場にいるかのように心が痛んだ。

しばらく後、WDは回想を続けた。
「彼女は地面に倒れると、けいれんして血を流していた。あっという間に特警の車がやって来た。トヨタの4500に似た、暗い色の車だ。車は少女のすぐ前に停まると、2人の特警が飛び降り、少女の遺体を車に放り込んだ。車は少し前進し、バックして去っていった。奇妙なことに、車が去った後、地面の血が消えていた。一滴の血の跡も残っていなかったんだ」

こういった話は聞いたことがない。警察車両が清掃車でないことは明らかだ! しかしWDは言い張る。
「たしかに清掃車ではない。だが、清掃車と同じように、地上の血痕をきれいに掃除してしまった」
もしや新式の警察車両の一種なのだろうか? それには虐殺現場を掃除する機能が備わっているのだろうか? 後にネット上で特警の車両を調べてみたところ、水を噴射する警察車両があることがわかった。上下左右に水を噴射できる他、360度回転するカメラを装備している。さらに、催涙弾を発射するための回転式の発射台もある。しかし、血痕などを消し去る機能を持った警察車両があるかどうかは、まだわからない。そうした警察車両があるのだろうか?

WDは続けた。
「この少女以外に、私は死者を見ることはなかった。しかし、バルコル街でホテルをやっている友人は、特警がバルコル街で発砲し、大勢が死ぬのを屋上から見たという。奇妙なことに、この特警たちはバルコル街だけが管轄で、他のエリアには手を出さなかった。少女の遺体が警察車両に運び去られるのを見て、私たちは逃げ始めた。私は一気にマケアメの角まで走り、脇道に入った。路地の両側の商店は大部分が破壊され、路上はものが散らばってめちゃくちゃだった。ご存知のように、あの辺りは回族が最も多い場所で、すぐそこにモスクがある。チベット人たちが車を燃やしているのが見えた。車が3台、バイクが1台、モスクの前で燃えていた。私は立ち止まらず、人の群れの中を抜けて、大きな門のところに着いた。

道を挟んで反対側にはチベット自治区公安庁がある。さらに奇妙なことに、公安庁の入り口には十数人の警官がいたが、立って眺めているだけなのだ。道を隔ててこちら側では、チベット人たちが破壊や放火をしている。回族の肉屋2軒を破し、車両7台が放火されていたのを覚えている。しかし、警官たちは、関係ないかのように何もしない。通りには見物人も多かった。みんな通りで見物しながら、話をしていた」

「まったく何もしない? なぜ?」
私は尋ねた。

「知るものか。そう、写真を撮っている警官はいた。ああ、それにビデオを撮っている警官もいた」
WDは回想を続けた。
「今思うと、本当に不思議だ。道を1本挟んでいるだけで、まるで別々の2つの世界だった。今でもわからないのだが、バルコル街の中の特警はなぜ射殺なんてしたのだろう? そして、バルコル街の外の警官たちはなぜ群衆をまったく制止しなかったのだろう? しばらくすると、3両の戦車が江蘇路の方からやって来て、リンコル東路に到着した。戦車に乗っていた軍人たちは全員が銃を携えていた」

「戦車?」
私は半信半疑だった。
「戦車だった? 装甲車ではなく? 政府当局は、ラサでは戦車は投入しなかったと言ってるわ」

「もちろん戦車だ。後になって装甲車も来た」
WDは言い切った。
「戦車と装甲車の区別がつかないとでも? キャタピラーの付いた戦車だよ。近づいてくると、辺りの地面が震えるんだ。戦車が来るのが見えると、見物人たちはみんな逃げ出した。私も逃げたよ。でも、近くにあった自分の部屋には帰らず、真っすぐ左側に入った。その辺りに友だちが住んでるんだ」

「戦車は何かした?」
また彼の回想を遮った。私の脳裏には、1989年6月4日、解放軍の戦車が北京の路上で民衆や学生を踏みつぶしたシーンが浮かんでいた。

「戦車が何をしたのかは知らない。ひたすら逃げていたからだ」
WDは言った。
「友だちの家に逃げ込むと、彼も外から戻ったばかりだった。ふたりともひどくショックを受けており、酒でも飲んで落ち着こうということにした。私は白酒は飲まないので、酒といえばビールしか飲めない。しかし、彼のところには青海省互助のチンコー酒が数瓶あるだけだった。その後、2人の友人が来た。1瓶また1瓶と空けていき、夜11時過ぎには、みんな酔っぱらった。とはいえ、飲み過ぎたというほどではなく、なんだか勇気が湧いてきた。そして、なんとしても自宅に帰りたくなった。

私たち3人は江蘇路の交差点まで歩いたところで、足がすくんだ。酔いもすっかり醒めてしまった。40〜50人もの兵士が立っていたからだ。銃を携え、ゴム製警棒や電気ショック棒のようなものを持っている兵士もいる。私たちは立ち止まって身分証を見せるよう命じられた。幸いみんなの財布の中には身分証があり、兵士はただ『行け』と言っただけだった。

しかし、友人のひとりが一言多かった。『身分証はあるんだ。どんな根拠で私たちを罵るんだ?』。万事休すだった。兵士が飛んできて私たちに殴りかかった。2人に腕を押さえられ、2人に顔を乱打された。私は目をひどく殴られて腫れあがってしまった。そんなに殴られたら失明してしまうと思ったほどだ。兵士たちは私たちが起ち上がれなくなるまで蹴り倒して罵り……(この部分省略)……派出所に連行した。

警官が2人来て、写真を撮り、身分証を記録した。取り調べの時、ひとりのチベット人警官がチベット語で『あまり喋るなよ』と言った。その声が荒っぽかったため、きっと漢人の警官には、私たちを罵っているように聞こえただろう。こんな時にチベット人を助けてくれる警官がいるとは意外だった。酔っぱらい3人を調べても何も出ないということだろう。結局私たちは放免された。幸いにも、私の部屋は派出所から遠くはない。帰る途中ずっと発砲音が聞こえていた。私にはわからない。いったい本当はどれだけの人々があの少女のように殺されたのか、本当にわからないのだ」

「友人2人の家は社会科学院の方にあるため、帰らずに私の部屋に泊まった。しかし、4日も泊まることになろうとは思わなかった。15日午前中、食べ物や飲み物、タバコを買おうと思い、外に出るや後悔した。路上は兵士だらけだった。銃や尖った部分のないつるはしを持っている者もいた。引き返そうとしたとき、10メートルほど先で、7〜8歳の男の子が兵士に石を投げた。兵士は即座に催涙弾を発射し、一瞬のうちに人々は逃げ回った。私はもう外出しないことにした。

幸い私が借りていたのは、以前ある企業が倉庫として使っていた部屋だったため、兵士に調べられることもなかった。しかし、建物の屋上にも、中庭にも軍人がいるし、軍の車両も多かった。丸4日間、私たちはカーテンを下ろして、部屋でテレビで見ているか、寝て過ごした。初めのうちはまだ会話があったが、次第に口数が減り、ひとりでそれぞれ考え込むようになった。昼間、耐えきれずにカーテンを明けて外を見てみたが、いつ見ても、見えるのは兵士の姿だった。日が暮れると、灯りもつけず、テレビもつけないようにした。暗闇の中で、物音をたてずに座っていると、たまらなく腹が減ってきた……」
「で、何を食べたの?」
尋ねないではいられない。

「ああ、幸い、牛乳は1箱買ってあった。正月に帰省したときに持ってきたパレー(パン)もあった。普段は食べようとも思わない。ラサには食堂がたくさんあるから、家でパレーなんて食べないんだ。だからカビが生えてしまっていた。しかし、その時は、牛乳とパレーを食べなければならず、カビを取り除いて、ミルクと一緒に飲み込んだ。ひどい味だったよ。でも、そんなことは気にしていられない。

さっきも言ったように、借りていたのが会社の部屋だったのは幸運だった。後で聞いた話では、広い敷地の部屋を借りていた友だち3人はすべて捕まった。スローガンを叫んだわけでもないし、石を投げたわけでもない。見物さえしていなかったのに、捕まってしまったんだ。逮捕の理由というのが可笑しんだ。ひとりはかなりの長髪で、カムパのような風貌だから。もうひとりは髪がとても短く、いかにも僧侶のように見えるから。3人目は、ええっと、金歯を入れているからだ」

「金歯?」
私は驚いて、即座に聞き返してしまった。

「ああ。ご存知のように、カムやアムドには、金歯を好む人が多い。今回の事件を起こしたチベット人の中には、カムやアムドの人たちが少なくない。だから、金歯だと捕まるんだ。カムパかアムド人だと疑われるんだろう。私はそれが捕まった理由だと聞いた。彼らが今どうしているのか、私にはわからない。

私が部屋を借りている会社の管理人は非常に神経質になっていた。彼はラサの人だが、えらく気が小さいんだ。毎晩静々と部屋にやって来て、灯りを付けないように言っていたが、そのうち私を追い出しそうとした。借りた期限の3カ月がまだ来ていないのだから、金を返して証明書を出してほしいと、私は主張した。彼はなんとしても私を追い出したがった。そして、19日、私は不承不承部屋を出た。2人の友だちの別れを告げ、別々の道を歩んでいる」

「私は近所の友人の家に3日間泊まった。鉄道の切符の販売が始まったと聞き、すぐ駅に向かった。駅までの道中は、友人の家から2キロほどしかないというのに、銃と警棒を携えた兵士たちに7回も検問を受けた。彼らはみんな四川方言を話していた。小柄で痩せていて、ネズミのようだった。しかし、彼らは虎よりも恐ろしいのだ」

「彼らは私の身分証と臨時居住証を何度もチェックした。もし写真と似ていないとなれば、即座に捕まってしまうだろう。携帯電話の中のメールや写真まで細かく調べられた。幸い、私の携帯電話は写真が撮れない。荷物も広げて調べられた。荷物の中に、小さなアルバムがあった。彼らはアルバムを広げ、1枚1枚写真を見た。不思議なのは、シャツの袖をめくらせて、腕を何度か前後に振らせたことだ。なぜだろう? 数珠でも探しているのだろうか? もし腕に数珠をしていて、僧侶でなければ、仏教徒だ。後に、これが理由で捕まった人がいると聞いた。結局、私は立ち席の切符を買い、汽車に乗り込むことができた。これで一安心と思ったら、また十数人の警官がやって来た。大勢で取り囲んで、私ひとりをチェックしているのだ。私だけを調べて、車両に大勢いる漢人は調べない。さらに私の荷物を引っ掻き回している。私は怒りに震えて、もう少しで爆発しそうになった」

「爆発しなくてよかったわね」
私は太い眉毛と大きな瞳を持つ若きアムド人を見つめた。彼はなんとか耐え抜いたのだろう。
「何が言いたいのかはわかるよ」
彼は言った。
「私は難民のようなもので、一刻の猶予もない。何があっても逆らうわけにはいかない。そう思うんだろ?」
「その通り」と私は答えた。

WDはうつむき、頭を上げて辺りを見回した。そして、再びうつむいた。しばらく後、弱々しい声で言った。
「本当はすごく後悔している。ずっと後悔してばかりだ。あの少女が殺されるのをこの目で見てから、後悔し始めたんだ。でも、どんなに後悔しても、私には何もできない。耳の奥からいつも“サプ・サプ・チェ”(気をつけて)という声が聞こえるんだ」

ここでWDの回想は終わった。立ち上がって、去って行く時、彼は何度も“サプ・サプ・チェ”と繰り返した。私は何とも言えない切ない気持ちになった。彼は明らかにまだおびえている。しかし、恐怖のあまり口をつぐむのではなく、私が記録し、恐怖に満ちた体験を公にすることを許してくれた。なぜだろう?

私はアウンサン・スーチーが恐怖と自由について書いた文章を読んだことがある。その中で彼女は、抑圧から自由になるために勇気を振り絞る人々を、詩で表現した。あらためて読み返してみて、それがチベット人にとっても真実であることがわかった。

私たちはエメラルドの静けさ。
手ですくった水のようなものかもしれない。
しかし、手のひらの上にあるのは、
実はガラスのかけらかもしれない。

[長田訳注:詩の原文は
 Emerald cool we may be
 As water in cupped hands
 But oh that we might be
 As splinters of glass
 In cupped hands...
→よくわからないんですが、
ビルマ民主化運動は手応えのない水のようなものかもしれないが、実は軍事政権の手のひらにあるのは、一つひとつが硬くて尖ったガラスのかけらたちかも」
というぐらいの意味でしょうか。正式な訳文をご存知の方がいらっしゃったらご教示下さい]

2008年6月1日、北京にて 

 

消されゆくチベット (集英社新書)

消されゆくチベット (集英社新書)

 

 

 

ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(1)DZ編

オリンピックが開催されている北京で、
当局に監視されながら、中国語のブログで思いを綴り続けている
チベット人女性作家ツェリン・ウーセル(中国名は唯色)。
看不見的西蔵〜唯色 Woeser's blog

 ↓先日、中日新聞東京新聞)にもインタビューが掲載された。
中国・チベット暴動 その後 チベット人女性作家 ツェリンウォセ氏中日新聞、2008年8月17日)
↓あともうひとつ
ただ独りのチベットの声、今なお語らんとすワシントンポストチベットハウスのHP)

f:id:ilovetibet:20190503030803j:plainここでは、彼女が記録した、2人のチベット人の証言を紹介する。
まず1人目。ラサから北京に逃げ、どこかの国へ逃げようとしているDZ(もちろん仮名)の証言だ。

原文は
在北京看見拉薩的恐懼(一)(2008.06.21)
英文は
The Fear in Lhasa, as Felt in Beijing(2008.08.03)

 翻訳は基本的には中国語ベースで、
よくわかんないところは英語も参考にしつつ。
急いでやったので、正確さは90%くらい。
長いです。

 ■ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(1)DZ編

 DZに会ったのは4月のある日だった。彼は明りの灯り始めたばかりの賽特商場近くの街角に立ちつくして、絶え間なく行き交う車と人の流れをぼんやりと眺めていた。ラサから来て、めったに外出しない彼のようなチベット人がいるという話は、以前JMから聞いていた。DZは仲間の催すパーティーにも出たことがない。典型的なチベット人そのものの風貌が、昨今の北京では注目の的となってしまうからだ。誇張ではない。最も初期のチベット人共産党員プンツォク・ワンギェル氏でさえ、外出すれば、北京の若者たちに指をさされ、こう言われるのだ。
「あいつを見ろよ。チベット独立派か、そうでなければ、新疆独立派だ」

名前を呼ばれたDZが、かなりぎょっとした様子を見せたのには、私のほうが驚かされた。思いがけず彼と出くわしたJMは、さっそくカフェへと誘った。そもそも私がJMに会うことにしたのは、何日かしたらチベットへ帰ると聞いたからだ。JMはここ数年、北京で仕事をしていたが、民族を理由に辞職を強いられた。JMによれば、同じく8人のチベット人が辞めさせられたという。それは社長のせいではなく、警察当局からの圧力が強まったからだ。帰れというなら帰るしかない。20年前の3月、去る3月と同様に、ラサで多くのチベット人が起ち上がった。当時10代だったJMは商店の戸口に放火し、4年間獄中で過ごした。こうした経歴があるため、JMはそれほど気に留めていなかった。

 JMとは違い、DZは無遠慮にチベット語を話そうとはしなかった。この思いがけない誘いに乗り気でないようにも見えた。しかし、なぜ拒まなかったのだろう? 私は静かに彼を観察した。遊牧民のような長い髪をたたえた、このチベット人は、黒い衣服に身を包んでも隠せない孤独を漂わせた、このチベット人は、今この時、同じ民族の仲間と一緒にいることを求めているように思えた。

カフェにはチベット語のわかる者は他にだれもいない。しかし、私にはなおためらいがあり、ラサで起こったことをDZになかなか尋ねられなかった。DZにはかつての貴族のような、ある種の気風が感じられたため、私はこんな冗談を言った。
「あなたは私たちの中で一番チベット人らしいわ。もしチベット服を着れば、“チツォク・ニンパ”(旧社会)のチベット人そのものね」
JMは笑って、色白でやせている自分は完全に民衆に紛れ込めそうだと言った。
するとDZが突然口を開いた。
「今でも度々ラサの夢を見るよ。いたるところ銃を構えた軍人だらけだ。北京の街を歩いていて、武装警察や警官を目にすると、無性に怒りと恐怖がこみあげてくるんだ」
DZは窓の外を眺めながら穏やかにそう言った。話す気になったようだ。

「外国人旅行者をダム(樟木)に迎えに行き、ギャンツェまで来ていた。ちょうど3月14日のことだ。移動中に受けた電話で、ラサで事件が起こったと聞いた。ラモチェ(小昭寺)周辺でチベット人たちが抗議行動を起こしたという。初めはラサに戻らず、ギャンツェにいたほうがいいという話だったが、また電話があり、帰ってこいと言われた。ラサに着くと、私は急いで旅行客をホテルに送りとどけた。

午後のことだ。ラサの東側では、商店が壊され、車が燃やされていた。郵便局の方に走っていくと、多くの人々が路上で、チベット人たちの抗議行動を見ていた。この数時間、チベットは独立したかのようにも思えた。しばらくすると、装甲車が数台やって来るのが見えた。“タンタンタン”と催涙弾が発射され、人々は散り散りに逃げ出した。経験のある者は、商店の水道で目を洗った。私は喉をやられただけのようだ。涙が止まらなかった……」

「発砲するのは見た?」

「私は見ていない。しかし、友人はラサ中学のあたりで、男性が射殺されるのを見た。チベット人だ」
DMは額を指して、話を続けた。

「私は急いで家に帰った。疲れていたし、怖かったので、横になるなり眠ってしまった。しかし、翌日は、外国人旅行客の面倒を見なければならない。家から一歩出るや、足がすくんだ。目の前が軍人だらけだったからだ。警棒を持っている者もいれば、銃を持っている者もいる。引き返したかったが、兵士が大声で私に向かって怒鳴った。『来い!』。いやでも行くしかない。2人の兵士が、私に両手を挙げるように命じた。投降したように両手を挙げさせられて、身体検査をされた。ぞっとしたよ。上着のポケットにお守りが入っていたからだ」

DZは上着からお守りを出して、私たちに一瞬見せた。“スンドゥ”(お守りの紐)に加えて“テンスン”(護符)があることがわかった。テンスンはダライ・ラマ法王が特別に加持をした神聖なものだ。魔除けの意味を持つ、チベット人にとっては非常に大切なお守りだ。

「クンドゥン(ダライ・ラマ法王)のバッジも付けていた。もし兵士に見つかれば、命はないだろう。心の中でクンドゥンに祈り続けた。クンドゥンは守ってくれたんだ。兵士はポケットを何度か探ったが、何も見つからなかった。そして兵士は叫んだ。『行け!』」

DZの幸せそうな表情には感激があふれていた。もちろんそれはダライ・ラマに対する感謝の気持ちだった。彼は祈った。そして祈りは叶えられたのだ。

私は尋ねた。
「軍人はチベット人の首を調べると聞いたことがある。“スンドゥ”にクンドゥンのバッジが付いていると、引きちぎって投げ捨てると。そうなの?」

「ああ。地面に投げ捨てた後、チベット人に踏ませるんだ。拒めば、捕まってしまう。手首に数珠を巻いていて、それが兵士に見つかって捕まった若者もいる」
DZは左手首の数珠を指差した。

「それは男性だけ? あなたのように、投降したように両手を挙げて調べられるのは」
DZは私の目を見て、ゆっくりと言った。

「いや、男だけじゃない。男も女も、老いも若きも、チベット人であるというだけで、すべて私のように両手を挙げさせられて検査される。わかるだろ? 私たちはそんな侮辱をこれまで受けたことはない。チベット人が一人ひとり投降したように手を挙げさせられ、銃を構えた軍人たちに体を調べられる。老人も、女性や子どもも見逃してくれない。そういうシーンを映画で見たことがある。日本鬼子が中国を侵略する映画や、国民党が共産党を攻撃する映画で見たのと、そっくりなことが目の前で起こった」
私もまたDZの細い目を見た。その瞳の奥は屈辱に満ちていた。

私は叔父の話をしないわけにはいかなかった。8年前[訳注:間違いかも]のラサ、チベット人たちは今日と同様に抗議行動を進めていたが、後に鋼鉄のヘルメットをかぶった胡錦濤率いる兵士たちに鎮圧されただけでなく、戒厳令まで敷かれた。ある日、叔父は通勤時に通行証を持って行くのを忘れたため、軍人に身体検査された。彼もまた両手を挙げさせられたのだ。叔父はこのことに強くショックを受け、以来、この話をする度に腹を立ててむせび泣いていた。彼は1950年代初頭に中国共産党に追随した、初期の党員であり御用学者であった。しかし、その事件以来、チベット人である以上、永遠に信頼されることはないのだと悟った。

少し興奮していたのだろう。私の声のトーンは高くなりがちだった。DZは神経質そうに辺りを気遣っていた。少し時間をおいて彼は話を続けた。

「私が借りていた部屋も調べれられた。幸運にも、私はお客と一緒にホテルに泊まっていた。部屋にはタンカ[仏画]が1枚ある。これはダライ・ラマの肖像だが、伝統的なタンカの様式で描かれたものだ。後で近所の人に聞いた話では、捜査は2回あったという。1度は武装警察、もう1度は居民委員会の幹部によるものだった。武装警察は、そのタンカが観音菩薩のようにダライ・ラマを描いたものだとわからなかったため、何事もなかった。居民委員会の幹部はもちろん知っているから、きっと写真を撮って記録したはずだ。また、私はチベットの貨幣を集めていて、ガイドをした旅行者からもらった各国のコインと一緒に小さな箱に入れておいた。この箱は持って行かれてしまった。武装警察なのか居民委員会幹部なのかはわからない。こそ泥みたいなやつらだ」


「もうラサにはいられない。どこかへ行かなければ、捕まってしまうだろう。少なくとも、5人のツアーガイドが捕まったと聞いていた。そのとき、ホテルで中央電視台の記者たちと知り合った。彼らが私たちを助けてくれた。ラサを発つ時、一緒に連れて行ってくれたのだ。私は見た目がこうだから、途中に何カ所もある軍人の検問を通過するのは難しいが、私は撮影スタッフだと記者たちが言ってくれた。私たちは一緒に鉄道駅に向かった。駅では、髪の短いチベット人の若者が捕まるのを見た。おそらく僧侶だろう」

「列車は沱沱河駅でしばらく停まった。窓の外には大量の軍の車両や軍人が見えた。中央電視台の記者は面白いと思ったのか、カメラを取り出して撮影し始めた。すると、軍人が数人ただならぬ様子でやって来て、すべてのビデオを削除しただけでなく、記録をとった。もしチベット人が撮影していたら、間違いなく捕まっていただろう。西寧に着いたが、ホテルが、チベット人は泊めてやらないという。記者たちの助けで、私と2人のアムドのモーラ(おばあさん)は、なんとか眠れる部屋を確保することができた」

「北京に着いたばかりの数日間、街を歩いていると、どこから来たのかと聞かれたものだ。正直にチベット人だと答えると、彼らはテロリストに出くわしたかのように顔色を変えた。武装警察に尋問されたこともある。だから、用事がないかぎり外出しないようになり、退屈してしまった。テレビを見れば、チベット人が破壊や略奪、放火をする場面ばかり流れる。ラサやその他のチベット人地域がどのように軍人たちの管制下に置かれ、どれだけのチベット人が殺され、捕らえられたのかは伝えられたことがない。あんな当局の言っていることはすべて嘘だ。軍隊は発砲していないとか、軍隊が来たのは町の清掃のためだとか。ああ、たしかに、彼らは掃除に来たさ。私たちチベットを片付けに来たのだ。私たちは、彼らの目にはゴミに見えるのだ」

DZは軽く笑った。しかし、その笑い声の中には、怒りと絶望が垣間見えた。しばらく、沈黙が続いた。窓の外を、欧米人が数人通り過ぎた。その振る舞いは、すべての毛穴の一つひとつから自由の空気を発散しているかのようだ。それは何も怖れずに思うがままでいられる気分であり、もう怖れるものはないのだという自由だ。DZは北京に逃げてきて、恐怖の日々を耐え忍びながら、ある大使館の許可を辛抱強く待っているところだ。

カフェを出たのは、かなり遅い時間だったことを覚えている。灯りはさらに明るくなり、中国人たちはまだひっきりなしに動き回っている。誰よりもチベット人らしいDZが突然、手のひらを広げて小声で言った。
チベット人だとわかってしまうのが怖いから、もう付けないようにする」
彼の手のひらには、小さなトルコ石のイヤリングがあった。

2008年4月、北京にて

後編(ラサで何が起こったのか? チベット人の証言(2)WD編)へ

  

消されゆくチベット (集英社新書)

消されゆくチベット (集英社新書)

 

 

【2008年チベット動乱】目撃者の証言集(2)

前回エントリー(目撃者による証言)に続いて、同じくRadio Free Asiaのサイトにある“Update on Tibet”の5月5日分までの全訳です。
Update on Tibet(Radio Free Asia)
↑このページは逐次更新されていくかもしれません。

 

チベット現地から話を聞いた亡命チベット人の証言が中心です。
記事は新しい順に並んでいます。見出しは勝手に付けました。
急いで訳しているので、細かいところでミスがあるかもしれません。
だいたい合ってると思いますが、あやしそうだったら原文を参照して下さい。
地名についてはチベット語・中国語の併記はしませんでした(原文でも統一されていません)


チベット内部の人々とのコミュニケーションがますます困難になる中、親族や友人との携帯電話を通じた会話や伝聞情報が、今起こっていることを伝えている。以下、報復を避けるための安全上の理由から、匿名にした部分もある。(5月5日更新)

 

■僧侶が射殺され、家族7人が拘束された(5月2日)

 

4月28日、ゴロク(果洛チベット族自治州のホンコル寺のチュトゥプが中国の治安部隊に射殺されました。彼は初期の抗議行動に関わって、潜伏していました。4月の終わり、食べ物を取りに帰宅していたところ、警官が家を取り囲んで彼を殺害しました。

 

5月4日、彼の母親ワンドルも撃たれて2カ所の銃創を負ったことを知りました。家族のうち両親、姉妹1人、兄弟3人、そして転生ラマ1人が拘束されました。

 

残されたのは年の若い2人だけです。チュトゥプの父親は手錠をされて連行され、息子の遺体と対面しました。家族の財産はすべて政府が没収すると、当局が通告してきました。

 

(2008年5月2日、チベット内の知人の言葉を伝えるインド在住チベット人より)

 

 

■デモ参加者をかくまった僧侶も同罪で拘束(5月3日)

 

26歳〜30歳位のクンチョク・トンドゥプが最近ラサで拘束されました。チャムド地区マルカム県タイ出身です。タシ・ギャルツェン、チュトゥプ・ノルブという2人の僧侶も一緒に拘束されました。中国当局は地元の新聞とテレビで、クンチョク・トンドゥプの逮捕につながる情報の提供者には2万2000元の賞金を提供すると告知していました。

 

彼はラサの3月のデモや騒乱で積極的に活動していた嫌疑がかけられ、長い間、行方がわかりませんでした。しかし、4月終わり頃、ラサのラモチェ寺ギュトゥ学堂の僧坊で拘束されました。共に拘束されたタシ・ギャルツェン、チュトゥプ・ノルブの僧坊です。2人はクンチョク・トンドゥプをかくまったため、同じ罪が課せられるでしょう。

 

(2008年5月3日、チベット内の知人の言葉を伝える、ウィスコンシンチベット人より)

 

 

■鉄道で装甲車や戦車が到着しました(5月1日)

 

高地でも燃えるオリンピックの聖火の第2弾が、エベレストの頂上に運ばれようとしています。安全を確保するため、ダム[訳注・中国とネパールの国境の町]の友誼橋周辺にすでに駐屯している2部隊に、さらに3部隊[原文注・人民解放軍または人民武装警察いずれかを指すと思われる]が加わりました。シガツェとディンリの間にはさらに5〜6部隊が配置されています。大雑把に言って、この地域には、50メートルに1人は兵士がいることになります。中国軍や警察などから退役したチベット人が多いディンリ地域では、警戒はさらに厳重だそうです。聖火がディンリを通過する際、いかなる抗議行動も制止しようという締め付けです。さらに悪いことに、中国の圧力によって、中国兵がエベレストのネパール側への入域を許されているのです。

 

ラサでは、締め付けは文化大革命のとき並みです。こうした状態になったのは1週間前でした。家を訪ねて来た者は全員ラサ市委員会に報告しなければなりません。当局者が一軒一軒家々を回り、居留許可証をチェックしています。ラサで生まれ育ったチベット人しかこの居留証を持つ資格はありません。許可証のないチベット人は連行され、理由を問わず拘束されます。不幸なことに、中国人にはこうした許可証は必要ないのです。これらはすべて、聖火がポタラ宮の前をパレードする際に不都合な事件が起こるのを避けるための予防措置です。

 

ラサ以外のチベット人が仕事や行商に来る場合、受け入れる者が、関係性や連絡先、滞在期間といった詳細を報告して身元を保証せねばなりません。[ラサ以外から来る]チベット人は10日以上滞在できません。巡礼のため滞在することは許されませんし、聖地はすべて閉鎖されています。1家族から1人だけ、ポタラ宮前の聖火の儀式の見物を許されるのだそうです。

 

ラサでの聖火リレーは4日から10日遅れると発表がありました。公式な理由はエベレスト周辺の天候不順ですが、本当の理由は軍[原文注・解放軍なのか武装警察なのかは定かではない]による準備が不完全だからだろう、と信頼できる筋から聞きました。こうした大規模な軍の存在を隠すため、彼らは青や赤の帽子と非戦闘員の制服をまとっています。中国はまた、チベット西北部ンガリ地方での、ウイグル人イスラム教徒とチベット人の共謀の可能性も懸念しています。ラサをはじめ聖火が通過する地域には数千人の正規軍が配置されています。

 

中国から到着した列車には2晩連続して装甲車や戦車が積まれていました。デプン寺の麓は兵士でぎっしりです。共産党員のチベット人は、厳格な政治教育を強いられています。こうした講習には政府職員のふりをした中国人治安要員が参加しています。彼らの本当の狙いはチベット人幹部の忠誠度を秘かに監視することなのです。

 

(2008年5月1日、チベット内の知人の言葉を伝えるヨーロッパ在住のチベット人より。彼は元中国政府職員であった)

 

 

※この後、原文には「2008年4月23日、カンゼからの電話」があるが、前の証言集とまったく同じものなので省略します

 

 

成都で留置され、暴行・拷問を受けました(4月11日)

 

3月13日か14日、アムド地方ゾッゲのシャメ地域[四川省]のチベット人40人が、理由もわからないままラサで拘束されました。彼らは確かに騒乱中にラサにいましたが、抗議行動には参加していません。にもかかわらず2日間拘束されました。彼らは僧侶17人を含む、下は7歳位から上は80代までのグループで、巡礼のためラサを訪れていました。

 

ラサで拘束された時、ソナム・リンチェンという男性が中国人警官に殴られました。後に彼は連れ去られ、以来、誰にも行方はわかりません。残った僧侶17人を含む39人は四川省成都に連行され、1カ月近く留置されました。

 

4月10日、僧侶以外の22人が釈放されました。僧侶17人はまだ拘束されたままです。釈放された者からは、数多くの暴行や拷問についての体験が聞かれます。彼らは果物とお湯しか与えられませんでした。

 

(2008年4月11日、アムド・ゾッゲのシャメ地域の知人の言葉を伝えるインド在住の僧侶より)

 

 

■彼らはダライ・ラマの写真を踏みつけました(3月31日)

 

ンガバ(アバ)県にはアムド・ンガバ仏教論理学院という施設があります。3月30日、この学院の多くの僧侶が拘束され連れ去られたと聞きました。その地域では一般のチベット人も大勢逮捕されました。同じ県内にゴマン寺があり、この寺だけで16人の僧侶が拘束されました。大勢の警官が寺にやって来て、僧坊も含めてくまなく捜索しました。

 

アムド・アトブ寺も捜索を受けました。僧侶17人が拘束されて連行され、その行方は誰にもわかりません。ゾッゲ県のタクツァン・ラモ・キルティ寺にも大勢の私服治安要員や警官がやって来て、僧侶17人を拘束し、現地の拘置所に投獄しました。

 

現在のような厳戒状態では、僧侶も一般のチベット人も、医師の手当が必要でも受けようとしません。平時でさえ医療施設は貴重なのです。弾圧で負傷した人々は、手当を受けに行くことを恐れています。食料不足も深刻です。チベット人は、生活必需品を買いに外出することも許されません。

 

3月29日には、キルティ寺から500人以上の僧侶が連れ去られました。数百の武装警官が僧坊など、僧院内を捜索しました。彼らはダライ・ラマの写真を何枚か見つけると、それを叩き壊して、足で踏みつけました。一般のチベット人も大勢捕まりました。30人ほどのチベット人が警察のトラックに載せられて町中でさらし者になっていました。

 

(2008年3月31日、チベット内の知人の言葉を伝えるインド在住のチベット人より)

 

 

■報道ツアーに選ばれたメディアとは(3月27日)

 

[木曜日にラサに報道陣が入れる]という発表を聞いてから、外交部や国務院から必死で情報を得ようとしました。彼らによると、入域できるのはごく限られた人数で、かなりの狭き門とのことでした。主だったテレビ局は選ばれませんでした。例外は、現場でのレポート抜きのビデオ撮影のみのAP通信、そしてアルジャジーラアラビア語サービス。同じアルジャジーラでも英語サービスは招待されませんでした。この選択には特定の意図があると考えるのが自然でしょう。[訪問中の]今日、抗議行動がありました。次回の報道ツアーは難しいと思います。

 

(2008年3月27日、欧米のテレビ局の仕事をしている北京在住のジャーナリスト)

 

 

■僧侶300人が抗議行動(3月26日)

 

3月25日、テホル・ダンゴ寺[訳注・四川省カンゼ州炉霍県]の僧侶たちが立ち上がり、抗議行動を起こそうと計画していましたが、当初は先頭に立つ者がいませんでした。その後、カンゼ地域の弾圧で殺された人々のための特別法要の最中、彼らは抗議行動を進めることを決断しました。

 

約300人の僧侶が袈裟をまとい、ダライ・ラマの写真を掲げ、寺からほど近いダンゴ県中心部に向かって平和的な行進を行ないました。主にチベット人からなる地元の警官隊が僧侶たちに対し、行進を止めて寺に戻るよう警告しましたが、僧侶らは警官に向かって野次を飛ばし、中国政府のために働くなんて恥を知れ、などと叫びました。その時、中国人警官が銃を構えましたが、チベット人警官らが説得して下ろさせました。

 

こうした緊迫した状況の中、チベット人警官は僧侶らが町の中心部に向かうことを容認したのです。僧侶らは「ダライ・ラマ万歳」「ダライ・ラマチベット帰国を認めよ」「パンチェン・ラマを釈放せよ」「チベット人に宗教の自由と人権を」といったスローガンを叫びました。町の中心部では他のチベット人たちも合流しました。そのとき武装警察が到着し、僧侶らを排除しようとしましたが、お互いに引き離されないようスクラムを組んで踏みとどまりました。

 

その後、僧侶らは寺に向かって行進し、抗議行動を続けました。発砲されましたが、僧侶らは地面に伏せて銃弾をかわし、暴力では応じないと宣言しました。中には、寺に戻る途中で中国政府の車両を壊した者もいましたが。

 

寺は今、人民武装警察に包囲され、すべての僧侶は立ち去るよう命令されています。

 

(2008年3月26日、インド在住のチベット人による)

 

 

■「電話1本で、とどめを刺せる」(3月24日)

 

アムド地方のチャプチャ地域[青海省海南チベット族州共和県]に、アツォ寺という小さな僧院があります。私はその寺の僧侶です。

 

3月22日の午前11時15分頃、僧侶たちが抗議行動を始めました。チベット国旗を掲げ、寺の裏の丘の上に集まって香を焚きました。「チベットに自由を」「ダライ・ラマ万歳」「パンチェン・ラマ釈放」といったスローガンを叫びました。

 

寺には100人ほどの僧侶がいます。

 

寺の周囲での抗議行動の後、さほど遠くない町の中心部に向かいました。そして、地元政府の学校で中国国旗を降ろして燃やしました。それから寺に戻って抗議行動を続けていると、警官を満載したトラック3台が到着し、そのリーダーが「これ以上続けると“重大な事態”になる」と脅しをかけてきました。彼は「電話1本で、とどめを刺せるんだ」と言いました。

 

僧侶らはこう叫びました。「これ以上、中国の抑圧に耐えることはできない。命を犠牲にする覚悟はできている」。その後、僧院長と若い高僧のとりなしで、僧侶らは平静になりました。

 

今のところ、この地域では逮捕や発砲といった事件は起きていません。

 

地元の一般人も集まって、僧侶らに加勢しようとしましたが、中国人に阻まれました。

 

(2008年3月24日、チベット内の知人の言葉を伝える、インドのデプン寺の僧侶)

 

 

■僧侶1000人以上が抗議行動(3月28日)

 

3月18日、サンチュ[甘粛省甘南チベット族自治州夏河県]で1000人以上の僧侶が抗議行動を起こしました。

 

ダライ・ラマ万歳」「チベットに自由を」「パンチェン・ラマ釈放」といったスローガンを叫びながら町の中心部に向かって行進しました。彼らはまた、中国指導部に対し、ダライ・ラマとの対話を始め、ダライ・ラマチベット訪問を認めるよう求めました。

 

彼らは地元の政府の学校に向かい、中国国旗を降ろして、代わりにチベット国旗を掲げました。その日、治安部隊はまったく現れませんでした。

 

しかし、3月21日午後7時頃、武装した治安部隊が寺に到着し、僧侶4人と俗人3人を拘束しました。

 

別の寺で4人の僧侶が拘束され、最終的に20人以上のチベット人が拘束されました。中には、読経していた十代の僧侶も数人いました。

 

今のところ彼らは無事です。拘束されているのは、タルギェル(43歳)、チューペル(42歳)、ケルサン・テンジン(40歳)、ジャムヤン(32歳)、サンギェ・ギャツォ(13歳)、タシ・ギャツォ(14歳)、ケルサン・ソナム(16歳)、ケルサン・トンドゥプ(17歳)、ケルサン・テンジン(16歳)、チュートゥプ(30歳)、ダムチュ(29歳)。別の寺で拘束されたのは、テンジン(27歳)、テンパ・ギャツォ(37歳)、ゾパ(年齢不明)、ケルサン・シェラプ(19歳)。

 

(2008年3月28日、チベット内の知人の言葉を伝える、インドのデプン寺の僧侶)

 

 

■僧院の食料不足が深刻です(3月23日)

 

3月23日、アムド地方ンガバ地域のチベット人たちは、上空を非常に低く飛ぶヘリコプターを目撃しました。

 

チベット人たちを脅かすつもりなのでしょう。これまでンガバ上空をヘリが飛ぶようなことはありませんでした。今、寺院やチベット人の住む地域の上を飛んで、チベット人たちを怖がらせています。

 

2日前の3月21日、地元の中国人指導者たちがキルティ寺に入り、僧侶への再教育講習を指導しました。その間、彼らはダライ・ラマ否定を強要はしませんでした。その代わり、僧侶らに対し、抗議行動は間違っており“役に立たない”のだと説得しようとしました。

 

キルティ寺に閉じ込められている僧侶に食べ物を届けようとしたチベット人がいましたが、治安部隊に制止されました。僧院の中の食料不足は深刻です。ンガバ県中心部に向かう大通りは人民武装警察によってブロックされています。僧侶も一般人も食料不足に陥っており、もし自暴自棄になれば再び蜂起する可能性もあります。

 

中国当局は、抗議行動に関わった人物についての情報を通報するよう誘惑しています。最初の通報にはいくらでも好きなだけ、2番手には5000元の報奨金が与えられるなどと言っています。

 

多くの一般のチベット人が拘束されています。平均して1家族につき1人は連行され、拘束されて尋問されています。中国当局は写真を見せて、写っているのは誰なのか特定しようとしています。

 

(2008年3月23日、チベット内の知人の言葉を伝える、インド・ダラムサラのキルティ寺分院の僧侶より)

 

 

■一家に1人が拘束されている(3月23日)

 

3月14日と15日のペンポ[ラサの北方]でのデモによって、5人の僧侶が拘束されました。

 

その後、ペンポ・ガンデン・チューコル寺などの僧侶・尼僧および一般人3000人以上がデモに加わり、拘束された者たちの釈放を求めました。

 

デモと弾圧の中で、チベット人の若者1人が殺されました。原因はわかっていません。

 

今、ガンデン・チューコル寺は中国の治安部隊に包囲されています。本来90人僧侶がいますが、老僧3人を除いて、すべて捕まって連れ去られました。同時に、160人のチベット人が拘束されていることが確認されています。総数はもっと多いのでしょう。

 

私が聞いた話では、1家族につき1人は連行されています。外部に電話して話したりすれば“深刻な事態”になると脅かされています。だから、彼らは詳しい話をするのを恐れているのです。

 

(2008年3月23日、チベット内の知人の言葉を伝える、ペンポ出身の亡命チベット人

  

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【2008年チベット動乱】目撃者の証言集(1)

Radio Free Asiaチベット語サービスのサイトにある証言集の4月分までの全訳。超長いです。要約しちゃうと短くなりそうだけど、そのままがいいと思い、全訳にしました。
What witnesses are saying(Radio Free Asia)
ほとんどがチベット現地のチベット人・中国人に対する電話インタビューです。
記事は新しい順に並んでいます。見出しは勝手に付けました。
急いで訳しているので、細かいところでミスがあるかもしれません。
だいたい合ってると思いますが、あやしそうだったら原文を参照して下さい。
地名についてはチベット語・中国語の併記はしませんでした(原文でも統一されていません)

 


目撃者の証言

 中国当局チベットの都ラサを封鎖状態に置いている中、目撃者たちが各地に広がる抗議行動の報告を伝えている。ラジオ・フリー・アジア(Radio Free Asia)のチベット語サービスおよび中国語サービスに寄せられた目撃談を紹介する。(最終更新4月23日)

■以下は、3月18日(火曜日)以降、ラジオ・フリー・アジア(以下)RFAに寄せられた証言の元文である。報復を避けるための安全上の理由から、匿名にした部分もある。

 

■ラサは地獄です(4月23日)

 「私たちは今、地獄にいます。日用品を買うため外出するには、2種類の身分証を持っていかねばなりません。ラサ市政府が発行した居留許可証と身分証明書です。5月末までは[ラサを]離れたり動き回ったりするなと告げられています。私たちはダライ・ラマを批判するよう強いられています。私たちのように商店や住宅を貸している者は『分離主義者とのつながりがあったり、所有地内で抗議運動の参加者が見つかった場合は、持ち主が逮捕され処罰される』と警告されました。ここチベットは地獄になってしまいました。」

(2008年4月23日、ラサからの電話)

 

■尼僧2人が拘束されました(4月23日) 
「4月23日午後1時頃、2人の尼僧がカンゼの町の中心部で抗議行動を行ないました。32歳のプモ・ラガ、30歳のソナム・デチェン。カンゼ県のダカル尼僧院の尼僧です。彼女たちは、ダライ・ラマチベット帰還を求め、『チベットは独立国だ』と主張する手書きのビラを配り始めました。中国の公安当局者がビラを見て、回収し始め、誰が配ったのかを探しました。」
「そして、2人の尼僧が、交差点でダライ・ラマ帰還とチベット人の自由を求めるスローガンを叫んでいるのが見つかりました。彼女たちはすぐに拘束され、警察車両で連れ去られました。連行される間も、叫び続けていました。2人は町にあるカンゼ拘置所に連行されましたが、同じ場所に捕われているのか、あるいは別の場所に移されるのかは、誰にもわかりません。ビラには、2人は自分自身で行動したのであり、ダカル尼僧院は抗議行動とは関係がないと記されていました。」
(2008年4月23日、カンゼからの電話)

 

■カンゼ公安局の職員

 「尼僧など捕まっていません。私は知りません」

(カンゼ公安局の職員)

 

チベット人共産党員からの電話(4月17日) 
「本当に率直に言いたいのです。チベットに住むチベット人たちは、今回の抗議行動で多くの命を犠牲にしました。彼らがそうしたのには理由があります。その理由とは、自由です。彼らはすべてのチベット人のために行動しました。このことで私は深く傷ついています。私自身ひとりのチベット人です。しかし、中国共産党の党員であり、職務に携わっています。こうした犠牲を目にしたとき、本当に心を動かされました。私があなた方のラジオに電話した理由のひとつは、すべてのチベット人組織そしてカシャク[チベット亡命政府の内閣]に対し、チベット問題を解決する道を見出してくれるよう訴えるためです。チベットの外にいるすべてのチベット人たちは一致団結していると聞いています。団結を続けるべきです。私たちは、国外に住むチベット人たちに希望を託しているのです。だから、すべてのチベット人組織とカシャクは、どう中国とつきあっていくのかを真剣に考えるべきです」

 

「昨年チベット使節が中国と会談したと聞きました。その対話は実りないものだっとも聞いています。対話では具体的な成果は何も得られないでしょう。過去にも、チベット人は、17条協定を論議しましたが、具体的な成果はありませんでした。中国人との対話は、いかなる成果ももたらさないでしょう。中国人高官との過去の議論において、具体的な成果がもたらされたことなどないのです」

 

「今、チベットの状況は、哀れで、非常に緊迫しています。すべてのチベット人は、特に高齢者は、中国の統治下で不安と恐怖を感じています。チベット内外のチベット人が、チベットに自由をもたらすために協力すべきなのです」

 

共産党員と名乗るチベッと人からの電話、4月17日)

 

■100人以上が殺されました(4月14日) 
「殺された人の数を正確に示すのは非常に困難です。主な理由は、ジョカン寺周辺では多くの人々が殺され、そして、彼らの多くはカム地方やアムド地方からさまざまな理由でラサに来ていたからです。彼らのほとんどは、居住許可証を持ってません。ですから、証明できるものがないため、犠牲者の数を確かめる術がないのです。100人以上のチベット人が殺されました。多くの友人が、チベット人たちが殺されるのを見ました」

 

「初めは、負傷した多くのチベット人が中国の病院に運ばれ、そこで手当を受けました。そのうち、負傷したチベット人が病院に運ばれると、手当を受けるかわりに拘束されるようになりました。抗議行動の2日目には、ケガを負ったチベット人さえ、容疑者として拘束されました。だから、ケガをしたチベット人は、死を待つしかなかったのです」

 

「今、ラサのチベット人の状況は非常に緊迫しています。チベット人が中国人の雑貨屋の店主と値段をめぐって口論になると、店主は警察を呼び、チベット人は容疑者として拘束されます。居留許可証を持っていないチベット人も拘束されます。まともに歩けない老人や学生さえ取り調べられています。漢族中国人には居留許可証は必要ありません。彼らの話す中国語それ自体が、許可証なのです」

 

チベットからの電話、4月14日)

 

■3月10日、ジョカン寺前で起こったこと
「3月10日、3人の僧侶が、トムシカン市場で商店を営むあるチベット人の支援を受けて平和的な抗議行動を始めました。彼らはチベット国旗を掲げて抗議していました。治安当局によると、彼らはセラ寺の僧侶とのことです。3人は捕まって殴られました。

 

同じ日、武装警察部隊がデプン寺に派遣されました。僧侶らがラサの町に向かっていたからです。警官隊が僧侶らを制止すると、僧侶らは「なぜ家に帰れないのか」と説明を求めました。口論になり、衝突が起こりました。

 

3月12日と13日、セラ寺の僧侶らが立ち上がり、抗議行動を起こしました。実は私は12日にセラ寺に行く予定でしたが、すべての車両はラサ中学の所で制止され、だれもそこから先へ行けませんでした。友人の中にも同じ所で制止された者がいます。それから、ガンデン寺の僧侶らも抗議行動を起こしたとを聞きました。ラサ市内から十分な警官隊を送ることができず、小規模な分遣隊をタクツェ県に送り、県政府の若手職員全員にガンデン寺に出動するよう命じました。中国人の兵士も一緒に派遣されました。」

 

「3月14日、私はジョカン寺(ツクラカン)に向かっていました。ラモチェ寺に通じる道路はすべて塞がれていました。ラモチェ寺に着くと、寺自体も警察の車両によって封鎖されていました。突然、ラモチェ寺の僧侶らが抗議の声を上げながら駆け出してきました。彼らは警察車両を1台か2台引っくり返すと、寺の中に駆け戻っていきました。チベット人の若者たちが大勢集まって、その場ですべてを見ており、警官が彼らを威嚇すると、石を投げました。若者たちは警官に追いかけられて逃げていきました。」

 

「彼らがトムシカン市場の水場を走り過ぎたとき、その辺りにいた若いカムパ[訳注・東チベット出身の男性]たちがラモチェに向かって走り出しました。彼らも投石で警官に挑みました。その頃、大勢のカムパたちがツクラカンの前に集まっていました。私がそこに着いた時、彼らの何人かがジョカン寺に向かってカタを捧げていました。スカーフで顔を覆っている者もいました。ひとりのカムパがツクラカン前の車の上に立って叫びました。『お前たちがチベット人なら、起ち上がらねばならない!』。そして彼は下りて来て、ツクラカン前にあった警察車両3台に火を放ちました」

 

「続いて、彼らはチベット自治区人民政府に向かって行進しました。『ラサには中国人が多すぎる。インフレがチベット人を苦しめている』と叫びながら。その時、装甲兵員輸送車の音が聞こえ、人々が『軍隊が来た』と叫び始めました。武装警官がデモ参加者を追いかけ、逆にデモ参加者が警官を追いかける場面もありました。同じ日、ラサの別の地域でもチベット人たちが立ち上がり、抗議行動は拡大しました。ラサの中国当局は、これらの抗議行動はすべてダライ・ラマのせいだと非難しました」

 

「私自身は殺されたチベット人を1日のうちに6人見ました。ラサのアニ・ツァングン寺には診療所があります。チベット人5〜6人がここで亡くなったそうです。見に行くと、遺体に灯明が捧げられていたそうです。知り合いも何人か殺されました。たとえば、ルプク出身のラクパ・ツェリンというチベット人で、観光客相手の運転手です。友人は『ハーラ、ハーラ』とニックネームで呼んでいました。彼は頭を撃たれて死にました。群衆の中にいた時、誰かが『撃たれた!』と叫んだのが聞こえました。彼が近づいて来たとき、ズボンにいくつも穴が空いているのが見えました。警察は標的に当たると弾ける特殊な弾を使ったのです。彼はやがて意識を失い、顔は土色になりました。私は近くにいた人たちに、足を布で縛るよう頼みました」

 

「彼にあげる水を取りに行った時、カムパが撃たれて血を流しているのを見ました。さらに、少年が亡くなったと聞きました。まだ16歳位です。抗議行動に参加さえしていなかったのです。殺されたラクパ・ツェリンも、入院している母親の見舞いに行った帰りに撃たれたのです。16歳ぐらいの女の子も撃たれました。全身が血に染まっていました。白かったのは手だけでした。お母さんは泣いていました。ひとり娘だったんです。チベット人たちが、彼女を慰めようと箱にお布施を入れて渡しましたが、彼女はそれを放り投げました。彼女はこう言いました。『娘は正義のために死んだのです。悔いはありません』」

 

「大勢のチベット人が捕まりました。私の宿の窓から、大勢が連れて行かれるのが見えました。もし灯りをつけて外を見たら、撃たれていたかもしれません。ライフルを構えた武装警察が大勢待機していたからです。だから、私は灯りを消してから、窓越しに見ていました。50〜60人の武装警察が家々に押し入り、チベット人を連れ去りました。ある夜、後ろ手に縛られたチベット人を見ました。彼は引きずられて、下水溝につまづいて倒れました。警官たちは彼を殴りました。そのとき中国語でこう言うのが聞こえました。『撃っちまえ!』『殺しちまえ!』。3月14日と15日、まるでお祭りの時の爆竹のように、銃声が聞こえていました。私たちは外出を許されませんでした。大勢の漢族やチベット人の女性たちがチベット服を着ているのを見ました。彼らはすべて漢族のスパイで、地域に潜り込んでいた者もいたそうです。」

 

「これはすべてダライ・ラマのせいだと中国当局は宣伝しています。チベット人として、やってもいないことで非難されるのを見ると、胸が痛みます。多くのチベッと人が彼を批判しているのも見ました。ダライ・ラマ13世時代の大臣クンペー・ラの夫人だったお婆さんが、大声でダライ・ラマを批判していました。彼らの多くが中国からそうするよう強要されているのでしょうが、口をきわめて猊下を罵っているのです。そんな言葉で猊下を批判するのを聞いて驚きました。一方、私の会った別のチベット人たちは、チベットのあちこちで同じような抗議行動が起こっていることをラジオで聞き、してやったりと思ったそうです。彼らは情報をお互いにやりとりして、チベットの他の地域で起こっていることを知っていました。」

 

チベット人は本当に隅に追いやられています。ラサには中国人が多すぎます。1989年に来た時には、あちこちにチベット人の若者がたむろしていたものです。今や、どこも漢族だらけ。本当かどうかよくわかりませんが、リウ[訳注・ラサ駅周辺]の新興住宅地には1万人以上の漢族の移民がやって来るそうです。ペンポの新市街にもさらに1万人。現在のバルコル地区のチベット人街は、ラサの何カ所かの高層団地に分散させられます。これらのすべての計画は、オリンピック後に実施されることになっています。」

 

「私がまだラサにいた時、ラサ市政府が、何人かの容疑者リストを発表したそうです。その中のトップは、中国の車の上に立ってチベット人の決起を訴えたカムパでした。後に、彼は空港で捕まったと聞きました。取り調べが始まった時には生きていましたが、出て来たときには死んでいたそうです。2人目は手足を折られて出てきて、生きているのかどうか、誰も知りません」

 

「多くのチベット人が外国の報道陣に来てほしいと望んでいます。しかし、必要ないと考える人もいます。アメリカは抗議行動の模様を衛星から撮影することができたでしょうから。チベット人たちは、その言葉を世界に伝え、広めてほしいと外国人に強く望んでいます。ラサには多くの刑務所があります。どこも捕まったチベット人で一杯です。私の知り合いの運転手は、ある拘置所に行き、チベット人たちが大部屋に囚われているのを見ました。ほとんどは裸でした。トイレも水もなく、その部屋で排便するしかないのです。100人以上のチベット人が連れて行かれるのが、私の宿から見えました。ラル地区で5〜6台の軍のトラックを見た人もいます。そのトラックには、中国人兵士に護送されるチベット人たちが手を縛られて詰め込まれていました。1000人を超えるチベット人が捕まったと私は思います」

 

(英国在住のチベット人。ラサの抗議行動とそれに続く弾圧を目撃した)

 

■娘の元に父親の灰だけが返ってきました(4月5日)

 

「短い時間で約200人のチベット人が捕まりました。混乱の最中で、誰が生きていて、誰が死んだのか、誰が連れ去られたのかは、わかりません。頭にケガを負った中国人を何人か見ました。それから、私の姉の話では、ルプク地区で9人のチベット人の遺体を見たそうです。私自身は、アニ・ツァングン診療所で、チベット人の女性と男性1人ずつが亡くなって横たわっているのを見ました。ラサ市人民医院に行った時、3人のチベット人が運び込まれるのを見ました。ケガ人の一人は、カム地方ペルバル出身のテンジン・ノルブです。彼の姉が連れて来たため、身元がわかりました。彼は頭を撃たれ、自治区人民医院に運んだほうがいいと勧められました。彼は嘔吐していました。助からなかったと思います。まだ若い…おそらく21か22でしょう…お姉さんによると、セラ寺のふもとにある学校の学生だそうです。別の若者も頭を撃たれていました。出血がひどく、助かる見込みはほとんどありませんでした。もう1人の若者は尻を撃たれ、4カ所ほど銃創を負っていました。」

 

「これ[決起]は正しい行為だと思います。私は抗議行動に参加し、ラモチェ寺周辺で2時間ほど抗議行動をしたうちのひとりです。この抗議は、私たちの祖国における中国による抑圧への絶望の表われだと理解しています。中国当局による実質的な鎮圧・弾圧は3月14日の夜、始まりました。夜8時頃、ラサのチベット人たちは、中国軍がやって来ることを知りました。多くはその場を立ち去って帰宅しましたが、抗議行動を続けた者もいました。まさにその夜、大勢のチベット人が連れ去られ、中国の武装警察がチベット人たちに発砲するのを見ました。」

 

「この目で見ました。3月14日、15日、16日には銃声が聞こえました。ルプク地区で亡くなった一人が、ラクパ・ツェリンです。彼のことは知っていました。娘さんが一人残されました。トゥールン・デチェン出身で、運転手をしていました。金曜に亡くなり、翌週の月曜に葬儀が予定されていました。しかし、頭に銃創を負っていたため、当局は遺体を解剖のため持ち去りました。後に遺体ではなく灰が返ってきました。ほとんどの犠牲者の身元はわかりません。家族が生きているのか、死んでいるのか、捕まっているのか、知る術はありません。遺体は当局に持ち去られて処分されてしまいました。」

 

「ラサにいた時聞いた話では、捕まったチベット人は、情勢が不安定なダプチやトゥールンの刑務所には連行されなかったそうです。多くはグツァや鉄道駅に近いニェタンの拘置所に入れられました。ニェタンでは約200人のチベット人が拘置され、取り調べを受けました。中国のテレビは、ペンポ・ルンドゥプ県でも農民や僧侶、学生らが抗議行動を起こしたと伝えていました。番組では、彼らは政府当局に投降したと主張していました。しかし、何人かのペンポ出身の人と話したところ、投降したことを否定し、中国当局は嘘を言っていると言っていました。」

 

(オーストラリア在住のチベット人女性。当時ラサにいた。4月5日にRFAの座談会に参加)

 

■東チベット・チャムドの緊張(4月2日)

 

「チャムド県では『人民と当局はアムド地方やカム地方カンゼ地域出身のチベット人に警戒しなければならない』という地元政府当局の通達が出ていました。チャムド市内では特に事件はありませんでした。居住者の多くは政府職員です。しかし、町には大きな武装警察の部隊があります。4月2日、政府は職員と住民らに、カンゼとアムド出身のチベット人に警戒するよう告げました。政府の通達によると、当局は、これらの地域からチャムドに来るチベット人を拘束する権限を有するといいます。こうした規制のため、旅行や仕事、あるいは日雇い労働などのチベット人は大きな迷惑を被っています」
(2008年4月2日、チャムドのチベット人が、オーストラリア在住のRFAのレポーターに語った)

 

■東チベット・ゴンジョで爆発事件(4月2日)

 

チベット自治区ゴンジョ県のある町の近くで爆発がありました。そこには県と地元政府の職員の住居になっていた建物があります。はっきりした日付や時間はわかりませんが、最近、その建物が爆発で大破しました。調べてみると、爆破装置が4つ見つかり、実際に爆発したのは2つでした。住人にケガはありませんでした。」
(2008年4月2日、チベット人がオーストラリア在住のRFAのレポーターに語った)

 

■東チベット・パシュの事件(4月2日)

 

「3月28日、チベット自治区チャムド地区パシュ県のニェラ寺のツェリン・ドルジェという僧侶が中国警察に拘束されました。彼はパシュの町の中心部に行き、宗教の自由とダライ・ラマの帰還を求めるポスターを貼りました。その地域には武装警察があるため、彼はすぐ連行されました。現地のチベット人たちは、彼は地元の刑務所に投獄されたと信じています。彼の釈放を求めるためニェラ寺の僧侶100人以上が町に出向く準備をしていましたが、僧院長や高僧に説得されて思いとどまりました。」
(2008年4月2日、チベット人が、RFAチベット語サービスに語った)

 

■東チベットの僧院に大規模な武装警察部隊(4月2日)

 

「カムの主立った僧院の近くに、大規模な中国の武装警察部隊が配置されています。ペユル寺には2,000人。トムタク寺に約500人。カトク寺のすぐ近くのホルポには約1,000人。武装警察は僧院に立ち入り、僧坊や高僧たちの住居を捜索しています。ダライ・ラマの写真を見つけると、警官はそれを押収し、所持していた僧侶を非難します。地元のチベット人住民は、夜9時以降は外出しないよう警告されています。その時間帯に見つかれば、3カ月拘留されます。また、武装警察が町を通って移動する際には、妨げてはならない、そして、もし妨害すれば、一切の容赦なく殺されると警告されました。ペユル寺の僧侶らは、中国国旗を寺の屋根に掲げるよう命令されましたが、応じませんでした。」

 

「当局は、ダライ・ラマ批判のキャンペーンを始め、[最近の騒乱における]『ダライ集団』の関与を示す宣伝フィルムを上映し、ラサでイスラム教寺院や漢族の商店・レストランを襲ったチベット人を非難しています。高僧らはダライ・ラマを批判するよう強要され、自由に移動することが許されません」
(2008年4月2日、カム地方のチベット人がRFAチベット語サービスに語った)

 

■何も言えません(4月2日)

 

「まさに渦中にいます。何と言っていいのかわかりません。私はチベット人ですが、政府の職員でもあります。個人的な意見を言うのは困難です。」

 

(2008年4月2日、サンチュ[甘粛省夏河県]のラプラン寺近くに住むチベット人公務員が、RFA中国語サービスに語った)

 

■テレビは信じません(4月2日)

 

「[中国政府に管制された]テレビの言うことは信じません。しかし、あなたと電話で話すことはできません。」
(2008年4月2日、四川省カンゼ州に住むチベット人女性がRFA中国語サービスに語った)

 

成都チベット人大学生(4月2日)

 

ダライ・ラマという名に触れることさえタブーです」

 

(2008年4月2日、四川省成都チベット人大学生が、RFA中国語サービスに語った)

 

■僧侶が殺された(3月31日)

 

「3月14日、彼らは軍隊によって殺されました」

 

(2008年3月31日、甘粛省のチョネに住むチベット人女性が、RFA中国語サービスに語った。現地での初期の抗議行動で僧侶が中国軍に殺害されたことについて)

 

■騒乱はまだ起こっています(3月30日)

 

「河北省武漢の部隊がチョネ周辺に配置されています。武装警察が、逃げたチベット人たちを逮捕しようとしています。散発的な騒乱はまだ起こっています。」

 

(2008年3月30日、甘粛省の男性が、RFA中国語サービスに語った)

 

■旅行者の立ち入りは禁止されています(3月30日)

 

四川省のラモ寺[訳注/タクツァン・ラモ寺]近くにはまだ大勢の武装警察が駐留しています。ラモには、甘粛省側と四川省側に[省境をはさんで]1つずつ僧院があります。四川側のラモ寺の僧侶はまだ抗議行動を続けています。衝突は起きていませんが、旅行者の立ち入りは禁止されています」
(2008年3月30日、地元チベット人男性が、RFA中国語サービスに語った)

 

■自由を求めています(3月30日)

 

「私たちはまだ自由を求めています。」
(2008年3月30日、四川省ダンゴ県[炉霍県]のチベット人僧侶が、RFA中国語サービスに語った)

 

ダライ・ラマ批判を求められました(3月30日)

 

「数日前に、さらに多くの部隊が到着しました。正確な数はわかりませんが、今回は武装警察だそうです。市内にも郊外にも配置されています。30〜40人が拘束されました。多くは地元の遊牧民です。自ら出頭した者もいますし、捕まった者もいます。数日前、パトロール中の兵士が遊牧民たちに教われました。私は、今回の騒乱についての自分の意見と、ダライ・ラマ批判を書くよう求められました。他の商人たちの多くも同じことを言われました。もちろん、書きたいように書くわけにはいきません」
(2008年3月30日、青海省チクディル県[久治県]住人が、RFA中国語サービスに語った)

 

■処罰されました(3月30日)

 

「私はあのインタビューを受けたことで処罰されました」

 

(2008年3月30日、四川省カンゼ州の政府職員が、RFA中国語サービスで語った。彼は以前、RFAに対して騒乱を認める発言をした)

 

■話さないことにしましょう(3月27日)

 

「私たちには状況はよくわかりません。そう出歩きません。それについては話さなないことにしましょう。お願いです。お願いします」
(2008年3月27日、ラサ近くに住むチベット人女性が、RFA中国語サービスに語った)

 

■ラサの中国人女性(3月27日)

 

「今は大丈夫なはずです。ほんの数日前までは、交差点ごとに兵士がいました。トラブルの起こっている地域もあれば、平穏な地域もあります。兵士たちは昨日引き上げました。…[僧院には]まだ兵士はいるにちがいありません」

 

(2008年3月27日、ラサで商店を営む漢族女性が、RFA中国語サービスで語った)

 

チベット人を大勢捕まえました(3月27日)

 

「彼らはチベット人を大勢捕まえました。重大な犯罪に関わった者が逮捕されています。罪がそう重くない者は釈放されています。…[捕まった人たちは]県の私たちの側に車で次から次へと運ばれてきていました」

 

(2008年3月27日、甘粛省チョネ県[卓尼県]在住の漢族女性が、RFA中国語サービスで語った)

 

■彼らは僧侶に発砲し、1人を殺しました(3月26日)

 

「月曜日、チョクリ寺の僧侶とンゴコク寺の尼僧を含む約1,000人がダンゴ県[炉霍県]で抗議行動を行ないました。中国警察は僧侶を殺害しました。彼らは僧侶らに発砲し、1人を殺したのです。彼は『チベットに自由を!』と唱えていました。私たちは行進していました。警官隊が道を塞ぎ、撃ってきました。月曜の夜、僧侶30が捕まりました。」

 

「火曜には、さらにダンゴ寺の僧侶200人以上がやはりダンゴの町に出ました。私も加わりました。私たちは行進しながら『私たちは自由がほしい!』と唱えました。警官は100人くらいいました。しかし、衝突はありませんでした。今日は誰も町に出ていないと思います。なぜなら今日は外出を禁じられているからです。僧院の入り口には武装した警官が配置されています。」

 

(2008年3月26日、チベット人僧侶が、RFA中国語サービスで語った)

 

■世界に伝えて下さい(3月22日)

 

「今、私たちはツォロ[訳注/青海省海南州]で抗議行動を行なっています。私たちは、中国指導部がダライ・ラマ猊下との対話を始め、チベット問題を平和的に解決することを求めています。また、猊下チベット訪問が許されるよう求めています。私たちの抗議行動は平和的であり、ツォロ州のセルロ寺の僧侶10〜15人によるものです。たった今、私たちは、町の役所がある中心部に向かって行進しています。そこから、県政府の役所へ向かう予定です。大勢の地元のチベット人、主に遊牧民たちが加わっています。」

 

「…セルロ寺から4〜5マイル行進してきましたが、中国の治安部隊が、町と県の中心部に向かうことを許さないのではないかと懸念しています。この抗議の行進はまた、ラサなどチベット各地で平和的な抗議行動を起こしたチベット人たちを応援する気持ちの表われです。今、治安部隊がやって来たようです。ありがとう。私たちがしていることを他の人々に伝え、世界に放送して下さい」

 

(2008年3月22日、抗議デモを行なっている最中の僧侶が、RFAチベット語サービスのインタビューに答えて)

 

チベットの国旗を掲げました(3月22日)

 

「3月18日、私たち、アムド・ゴロク[青海省果洛州]のペユル・タルタン寺の僧侶は、地元の県政府の役所に向けて行進をしました。地元のチベット人も加わり、約300人になりました。そのとき、武装警察はいませんでした。ほんの40人ほどの地元の警官だけでした。私たちは、県政府の役所まで行進し、中国の国旗を引きずり下ろし、チベットの国旗を揚げました。地元の警察は特に邪魔しませんでした。彼らはただ遠くから見て、写真を撮っていました。それから私たちは地元の学校や病院に行進し、中国の国旗を下ろし、代わりにチベットの国旗を掲げました。私たちはまた拘置所に向かい、すべての囚人の釈放を当局に求めると、彼らはそれに応じました。私たちはすべての抗議行動を平和的に行ない、誰ひとり傷つけず、一切の損害をもたらしていません。それから午後になると、武装した治安部隊を満載したトラックが4台到着しました。彼らは、5人か6人、おそらくもっと大勢のチベット人を逮捕しました。」

 

「今、抗議行動に参加しなかった僧侶しか寺にはいません。残りは山中に身を潜めています。高僧らは罪人を引き渡すよう圧力をかけられています。[中国は]自首すれば酌量すると言っています。自首しなければ“深刻な事態”になるでしょう。僧院は今、治安部隊に包囲されています。私たちがしたこと、そして私たちどんな状況にあるのかを伝えて下さい。ありがとう」

 

(2008年3月22日、ペユル・タルタン寺の僧侶が、RFAチベット語サービスに語った)

 

■治安部隊が発砲し、2人を殺しました(3月21日)

 

「3月20日、中国の治安部隊がセルタ県[四川省色達県]キクの町に到着しました。約1,000人いました。彼らは、17日の抗議行動で町の役所の建物に掲げられたチベット国旗を引きずり下ろそうとしました。抗議行動の参加者たちが平和的に抵抗していると、治安部隊が発砲し、2人を殺しました。犠牲者の名はキャリとツェド。2人ともツェシュル村の出身です。イェシェ・ドルジェ、タプケなど8人は重傷を負い、セルタ県の病院に運ばれました。セルタでは、セルタ・セラ寺の僧侶らが率いる1,000人以上のチベット人が抗議の行進を始め、約30マイル進んだところで、その2人のチベット人が殺されたのです。彼らはチベット国旗とダライ・ラマの写真を掲げ、『ダライ・ラマ万歳!』『チベットに人権を』そして『チベット独立!』といったスローガンを叫んでいました。彼らはまたチベット独立を訴えるビラを配りました。治安部隊は“深刻な事態”になると彼らを脅しましたが、彼らは平和的なデモを続けることにしました。今のところ[それ以上の]発砲はありません」

 

(2008年3月21日、セルタ在住者が、RFAチベット語サービスのインタビューに答えて)

 

■外出したチベット人はみんな捕まりました(3月20日

 

「ラサの兄弟の家にいます。でも、町に入ることはできません。治安部隊がすべてを封鎖してしまっていて…居留許可証を持っている者は動き回れますが、持っていない者は外出できません。15日と16日、外出したチベット人はみんな捕まりました。今も、中国の治安部隊による封鎖は続いています。彼らは治安要員が撮影した写真を持って、そこに写っているのは誰か、どこにいるのかを尋ねて回っています。最近、僧侶がひとり捕まったと聞きました。中国が妨害電波を出しているため、RFAとVOAのラジオ放送はラサでは聞けません」
(2008年3月20日、ラサ在住のアメリカ国籍のチベット人が、RFAチベット語サービスに語った)

 

■僧侶たちは再教育を拒否しました(3月20日

 

「カムのガパ地域のセルカル寺の僧侶に対する再教育を実施するため、大規模な治安部隊が到着しました。しかし、すべての僧侶は参加を拒否し、かわりに宗教の自由と人権を求めるスローガンを叫びました。約500人の僧侶がいます。治安部隊は寺を去る前に、明日戻って来て捕まえてやると脅したそうです。その後どうなったかはわかりません」
(2008年3月20日、ンガバ[四川省ンガバ]のチベット人目撃者)

 

■治安部隊が学生たちを包囲しました(3月20日

 

青海省では、3月19日、玉樹州出身のチベット人学生が抗議行動を起こしました。約800人の学生のうち、約400人が参加しました。彼らは中国国旗を下ろし、火をつけました。治安部隊が到着し、学生たちを包囲しました。治安部隊は、その地域で騒乱を起こす者には発砲せよと命じられたことを告げました。学生たちは他のチベット人たちとの接触を禁じられています」

 

(2008年3月20日青海省より)

 

■2,000人がデモに参加しています(3月20日

 

「アムドのツェコ[青海省沢庫県]では、3月20日も僧侶らが平和的な抗議行動を続けています。僧侶を含む2,000人のチベット人が参加しています。参加者が求めているのは、中国の指導部がダライ・ラマとの平和的な対話を開始し、チベット問題を平和的に解決することです。彼らはまた、すべてのチベット地域での実質的な自治を求めています。そして、ダライ・ラマがアムドを訪問することを許すよう求めています。今ここには治安部隊はいませんが、こちらに向かっていると聞きました。中の世界には自由はありません。私たちは今、県政府の役所の前で抗議行動をしています。約2,000人います。私たちは平和的に抗議しています」

 

(3月20日、アムドのデモの最中、参加者がRFAチベット語サービスに語った)

 

■オリンピックが終わるまで拘束される(3月20日

 

「今日もまた中国の警察が、アムド・ンガバ[四川省アバ]地域のチベット人の家々を1軒1軒捜索しています。ダライ・ラマの写真や、政治的に問題のある物や文書はすべて押収されます。自宅から見つかった場合は逮捕されます。オリンピックが終わるまで拘束されると言われています。オリンピックが終わったら、裁判が始まるのだそうです」
(3月20日、ンガバのチベット人の証言)

 

■まだ外出禁止令(3月20日

 

「町に出入りする時は、身分証明書を提示しなければなりません。まだ外出禁止令が出ていて、通りはほとんど放ったらかしの状態です。商店は仕事になりません。みんな家にいます」
(3月20日、ラサ在住のチベット人がRFA中国語サービスで語った)

 

■何も話せません(3月20日

 

「言ってはならないことを一言でも口にすれば捕まってしまいます。怖いです。何も話せません」
(3月20日、ラサ在住のチベット人女性がRFA中国語サービスで語った)

 

■携帯電話はつながりません(3月20日

 

「大勢が捕まりました。私は家にいて、友だちと連絡もとれません。私の携帯電話はつながりません。私に電話すると、電源が切れているというメッセージが流れます。実際は一度も切ったことはないのですが」
(3月20日、ラサ在住のチベット人男性がRFA中国語サービスで語った)

 

■ラサの刑務所は満杯です(3月20日

 

「ラサでは、抗議行動に参加しようがしまいが、身分証明書を持っていないチベット人は捕まってしまいます。身分証を持っていない遊牧民も多いんです。ラサの刑務所は満杯です」
(3月20日チベット亡命政府スポークスマンが、RFA中国語サービスで語った)

 

■バイク30台以上が大破しました

 

「昨夜、60台の警察のトラックがボラ地域にやってきました。7台ないし10台はすでにこの地域に配置されていました。今朝、60台すべて去って行きました。近くの僧院の僧侶たちは外出を許されず、外にいる僧侶は帰ることを禁じられました。3月18日、さまざまな地域のチベット人たちが馬で町の中心部にやって来ました。バイクで来た若者も大勢いました。バイクは警察のトラックに引かれ、30台以上が大破しました。今のところ、この地域での逮捕や発砲の知らせはありません」
(ボラ地域の人と話したインドのデプン・ゴマン寺のクンチョク・ギャツォ)

 

■今朝だけでも、市場で3人捕まるのを見ました

 

「ラサでは、大勢のチベット人が捕まりました。今朝だけでも、タリン市場で3人が捕まるのを見ました。ひどい暴行を受け、手錠をかけて連れて行かれました。中国とコンポ地方からさらに治安部隊が送り込まれたそうです。町中に入るチベット人は検問で調べられます。男性や若者は全身くまなく調べられますが、女性には少し緩いようです。体だけでなく、手荷物を調べられます。軍隊で一杯になったラサの町を見るのは恐ろしいです。中国の装甲車のナンバープレートは、どの部隊かを特定されないよう覆われています」

 

(ラサ在住のチベット人の証言)

 

■昨日も1人殺され、9人が連行されました

 

カンゼの町に平和はありません。昨日も1人殺され、9人が殴られて連行されました。連行された人の家族には、生きて会える望みはありません。ただ遺体を待つのみなのです。しかし、家族にとって悔いはありません。彼らは正義のために命を落としたのだと信じているからです。最近さらに7人チベット人が逮捕されました。ギュルメ、ペンパ、ドルジェ、ジャムヤン、クンガ、チメ・ゴンポ、そして、ナムサ・ワンデン。カンゼの町の中心部では、チベット人は自由に移動できません。そこに行けるのは人民武装警察だけです。地元の県政府幹部には何の権限もなく、武装警察が管制を敷いています。40台の新品の車両と2機の航空機、そして1万人近いと思われる武装警官が駐留していると地元の人々は見ています。

 

(カンゼのチベット人の証言)

 

■学生たちは帰郷を許されません

 

「ンガワ[アバ]に両親がいるマルカム普通学院のチベット人学生たちは、噂を聞いて帰郷したいと希望しました。学校当局は、学校にいたほうが安全だと言って制止しました。衝突が起きたのは何日だったのか、定かではありません。しかし、キャンパスは事実上の戒厳状態に置かれ、3月15日以来、学生たちは帰郷を許されていません。学校にいる限り、安全は保証されています。学校側は、人々が騒乱を起こすことを憂慮しています」
四川省マルカム県のマルカム普通学院の漢族教師が、RFA中国語サービスで語った)

 

■家族の安否が心配です

 

「この状況について話すのは適切ではありません。家族には電話もつながりません。呼び出し続けてるんですが、話し中の音になって、つながらないんです。家族の安否が本当に心配です。現地で何が起こっているのか、まったくわかりません。通信手段が機能していないんです」
四川省成都の西南民族大学のチベット人学生が、RFA中国語サービスで語った)

 

■話すのはまずいんです

 

「話すのはまずいんです。携帯電話は盗聴されています。校内で抗議行動があるかどうかは言えません。まずいんです…」
(上海在住のチベット人学生が、RFA中国語サービスのインタビューに答えて)

 

四川省成都でも検問

 

成都チベット自治区事務所へつながるすべての大通りには、車両の中で待機する機動隊と武装警察が配置されています。私は近所を歩きましたが、ミニバンや普通車など、治安関係の表示を付けた車両は60台を下りません。チベット自治区事務所方向へ向かう車はすべて検問を受けます。トランクが調べられ、ドライバーは車から下りて、身分証を提示しなければなりません」
成都在住の漢族活動家Huang Xiaominが、RFA中国語サービスのインタビューに答えて)

 

■私たちの政策に不適切なところがあったのだと考えるのが自然です

 

「ラサで抗議行動を起こした僧侶たちがきわめて乱暴に扱われ、戦車まで投入されているのを、“FreeGate”を使ってインターネットで見ることができました。やりすぎだと思います。死者が出たと聞きました。私は大勢のチベット人と仕事をしたことがあります。多くの少数民族を知っています。特にチベット人は好きです。ひとつ例をあげましょう。料理や水が足りなくなったとき、チベット人の家を訪ねて行けば、だれもが面倒をみてくれます。食べ物や泊まるところを提供してくれます。私だけでなく、友人5〜6人がそういった体験をしました。彼らが本当に騒乱を起こそうとしたというなら、私たちの政策に不適切なところがあったのだと考えるのが自然です。チベット人の友人たちにお願いします。漢族全員を嫌いにならないでほしいんです。目に映るのは本当に悲しい風景です。戦車ですよ…戦車なんて、ひどいものです…」
(北京在住の中国人が、RFA中国語サービスのリスナー参加番組に電話して語った)

 

■この地域だけで18人の遺体が確認されました

 

「ンガバ[アバ]の抗議行動では、計18の遺体が確認されました。キルティ寺だけで、15人が葬儀のため運び込まれました。近くの遊牧地帯で、さらに3人の遺体が確認されました。ンガバには他にも多くの僧院がありますから、他の僧院にも遺体が運び込まれているのでしょう。だから、この地域だけで18人が確認されたということです。彼らはあえて中国の病院に行くことをせず、自宅で治療を受けました」
チベット人目撃者の証言)

 

■家宅捜索で無実の6人が連れ去られました

 

「ラサでは、中国人警官が人民武装警察を伴ってチベット人の家々を捜索しています。居留許可証の提示を求め、もし持っていない者がいれば、何の説明もなしに連行されます。許可証を持っているチベット人でさえ、何かの理由で疑われると連行されてしまいます。

 

例えば、3月15日の夜10時頃、武装警察を伴った警官たちがチベット人の家々の捜索を始めました。カム地方ツァワ・パシュ出身の家が捜索されました。ケルサン・ギャルツェンには2人の息子ロチュ、チャンパと、娘がひとりいました。娘は居留許可証を持っていましたが、他の家族は申請中で、まだ発給されていない状態でした。すると、中国人警官は父と息子2人を逮捕して連れ去りました。娘さんには、彼らがどこに連れて行かれたのかわかりません。警官は家の中を捜索し、現金1万元を発見しました。一家は小さな商店を営んでいたからなのですが、警官は彼らの言うことに耳を貸さず、その金を持ち去りました。娘さんはお金もなく、ひとりきりで残され、父と兄弟がどこで捕らえられているかもわかりません。彼女は父と兄弟の安否を心配し、憂いています。

 

同じ区画の中に、カム地方デルゲ出身の家族が住んでいました。父の名はツォニ。彼にもまた2人の息子がいます。同じ夜、家宅捜索を受け、彼らも逮捕されました。

 

6人はいずれも無実であり、抗議行動には参加していないそうです。中国は政策として、男だろうが女だろうが、チベット人の若者のほとんどを捕まえようとしているのです。彼らがどこに連れていかれたのかは、誰にもわかりません。外出しようとすれば、逮捕されてしまうでしょう。殺されてしまったのか、拘束されているのか、あるいは暴行を受けているのか。生きているか死んでいるかさえもわからず、見つけ出す術もないのです。ラサは事実上の恐怖政治の中にあります。」
(ラサの親戚に電話をかけた、カナダ在住のジャンペル)

 

■リーダーは射殺されました

 

「3月18日午後2時5分頃、四川省のカンゼで抗議行動が起こりました。僧侶も俗人も参加していました。ペマ・デチェンとンゴガという2人に率いられた参加者たちは『ダライ・ラマ万歳』『チベットに自由を』と叫び、ビラを配りました。数百人の武装警官が動員され、デモ隊を制止しました。デモ隊が抗議行動を続けたため、当局は10人を逮捕しました。捕まったのは、ペマ・デチェン、ゴンポ、ツェテン・プンツォク、ロブサン、サンポ、パルデン、ゴンポなどです。リーダーのひとりンゴガは射殺されました。他の9人は引きずられていきました。ケガを負っているように見えましたが、はっきりとはわかりません。今、カンゼ中が警官と兵士だらけです。チベット人は誰ひとり外出して、町を歩くことはできません」
四川省カンゼのチベット人

 

■僧侶のひとりが射殺されました

 

「タルギェ寺の僧侶200人以上が抗議行動にやって来ました。しかし、中国人スパイが当局に通報しました。デモ隊がカンゼの旧市街へと行進していると、警官隊が立ちはだかりました。僧侶が抗議すると、僧侶のひとりが射殺されました」
四川省カンゼのチベット人

 

■学校で抗議のスローガンを叫びました

 

「昨日と一昨日、私たちの学校[陝西省咸陽のチベット民族学院]の学生たちは、抗議のスローガンをたくさん叫びました。学生寮は7階建てですが、スローガンのほとんどは3〜7階から聞こえてきました。学生たちは屋上から魔法瓶などを放り投げました。この学校には約1,000人のチベット人学生がいます。今日は学校当局が全学生を大きな集会に招集し、事件に関わった者は告白文を提出せよと告げました。そして、党員は資格を失うことになると警告しました。今のところ学校には警官の姿はありません。しかし、この事件はすべて省の政府に報告され、あらゆる必要な措置が講じられると、集会で告げられました。」
陝西省咸陽のチベット民族学院の学生の証言)

 

■警官が遺体を持ち去りました

 

「以前、射殺された男性の話をしました。昨日、その家族が葬儀のため遺体を運ぼうとしたところ、警官が家にやって来て、遺体を持ち去りました。解剖して調査するため、すべての遺体を持ち去っているのだと警官は言いました。そして、騒乱の遺体はまとめて火葬にする。火葬の前に家族には連絡があり、火葬後、火葬場を訪ねることが許可されるのだと。こうして家族に有無も言わさず、遺体は強引に運び去られました」
(ラサのチベット人による証言)

 

■戒厳状態です

 

「ラサは全体に戒厳状態です。最近の破壊の跡を片付ける作業があちこちで進んでいます。市内では、市の身分証を持っていれば移動はできます。しかし、巡礼や旅行などで外から来た者は中に入れませんし、すでにいる者は出られません。私は巡礼に来ましたが、最後の4日間は旅行も外出もできず、宿にこもっていました」(ラサのチベット人による証言)

 

■デモ隊の先頭では少女がダライ・ラマの写真を掲げていました

 

「3月18日、リタンでは300人以上のチベット人が抗議行動をしました。デモ隊の先頭では、[アッパ・ブモという]少女がダライ・ラマの写真とカタを掲げていました。彼女は中国の治安要員に逮捕されました。この地域には大規模な中国の軍隊が駐留し、さまざまな規制が敷かれました。ニュースメディアはすべて遮断されています。学校もオフィスも商店も閉まっています」
(リタンのチベット人による証言)

 

 

■以下は3月17日(月曜日)のチベット人と中国人による証言

 

武装警官が通行人の身分証をチェックしています(3月17日)

 

「今日はよくなりましたから、外出できます。多くの人々が食料を買いに出て来ています。しかし、町には武装した警官が大勢立っており、通行人の身分証をチェックしています。町には警官が大勢います。現地政府は私たち外国人にラサを離れるようには言ってきません。しかし、出て行きたいなら、外事事務所が手助けしてくれるでしょう」
(ラサにいる香港人女性商人)

 

■北京の中央民族大学で沈黙の抗議(3月17日)

 

「北京の中央民族大学チベット学部門には約2,000人の学生がいます。そのうち40人が、チベットのさまざまな所で殺されたり、傷ついたりした人々を悼むため沈黙の抗議に参加しました。警官がやって来ました。彼らは今、教室に閉じ込められています。」
(北京で抗議行動に参加したチベット人の証言)

 

■病院が被害を受けました(3月17日)

 

「ラサの人民医院が被害を受けました。地元のチベット人は、これはチベット人が手当を受けられないようにするための中国人の仕業だと疑っています。ラサの病院に運ばれたチベット人は今、追い返されています」
(匿名のチベット人

 

■犠牲者が出ました(3月17日)

 

「地元の寺院の僧侶が武装警察と衝突しました。犠牲者が出ました」
四川省ンガバのチベット人住民)

 

■大勢の警官がいます(3月17日)

 

「町中でも郊外でも騒乱が起き、町には大勢の警官がいますが、自分の身の安全が心配になるほどではありませんでした」
四川省ンガバの中国人住民)

 

■旅行者は立ち去るよう命じられました(3月17日)

 

「旅行者はンバガ地域から立ち去るよう命じられました。到着したばかりの外国人の3グループが、すぐに立ち去るよう告げられました」
四川省ンガバの中国人ホテル従業員)

 

■400〜500人の僧侶が町に現れました(3月17日)

 

「土曜の午後、400〜500人の僧侶が町に現れました。彼らは窓ガラスを割り、1時間足らずで去って行きました。この地域を守るため約2000人の兵士が駐留していました。」
甘粛省四川省の省境にある寺院の近くに住む漢族目撃者)

 

甘粛省の中国人(3月17日)

 

「抗議行動の規模は小さいですが、まだ続いています…マチュ県とルチュ県それぞれに約1,000人の武装警察が配置されました」
(3月14日に始まった抗議行動について、中国人の証言)

 

青海省の中国人(3月17日)

 

チベットで暴動が起こったため、地元当局は、ここで抗議行動が起こることを防ぐため手段を講じています。私たちの県には約200人の武装警官がいました」
青海省同仁県の中国人住民)

 

青海省のホテル従業員(3月17日)

 

「この地域には外国人は入れません」
青海省同仁県のホテル従業員)

 

■退去させられたジャーナリスト(3月17日)

 

「私たちは甘粛省夏河で、ホテルを見つけられませんでした。取材を終えた後、夏河を追い出されました。夏河に再び入ろうとしましたが、許されませんでした。私たちの身分証は、路上の検問で精査されました。夏河に続く唯一の道路は遮断されています。すべての車が制止され検問を受けます。乗っている人の身分証と車のナンバープレートがチェックされ、記録されました。ジャーナリストは潜り込むことはできませんでした。甘粛を離れるすべての車も、そこにいたというだけで慎重に検査されました。甘粛を離れる車の渋滞ができていました」
(英国人ジャーナリスト)

 

■写真を消去しています(3月17日)

 

「彼ら[警官]は、暴動に関するものと見なした写真をすべて消去しています。そういったものを持ち出させないつもりです」
甘粛省の旅行ガイド)

 

■以下は、3月16日(日曜日)のRFAのインタビューに答えたチベット人による発言の抜粋。

 

■8人の遺体が到着しました(3月16日)

 

「たった今、キルティ寺に8人の遺体が到着しました」
四川省ンガバのキルティ寺より)

 

■4人が殺されました(3月16日)

 

「キルティ寺の近くを行進している時、4人のチベット人が狙撃されて殺されました。少し後、さらに3人が殺されました。彼らは遠くから撃たれました。撃たれる前、抗議行動の参加者たちは交番2カ所の窓を割りました。…5,000から6,000人の参加者がいたようです…殺された後者3人の名前はツェジン、ノルブ、そしてロブサン・タシです」
四川省ンガバのチベット人デモ参加者)

 

■東チベット・タウ県(3月16日)

 

「3月15日、カムのタウ[道孚県]で抗議行動がありました。10台の人民武装警察のトラックが突然やって来ました。カムのセルシュ寺は包囲されました。彼らは町をパトロールし、ランダムに身分証をチェックしています。情勢は非常に緊迫しています」
四川省カム地方カンゼのチベット人の証言)

 

■ラサの尼寺の診療所(3月16日)

 

「ラサの尼寺の診療所で5人のチベット人がケガで亡くなりました。ラサのツァンクン尼僧院です。診療所にいた2人のチベット人はケガをしており、足が折れていると言っていました。身元不明のままの少年の遺体が横たわっていました。他に数人の遺体が運び込まれました。彼らの多くは親族が引き取りました」
(ラサのツァンクン尼僧院内部より)

 

■閉じ込められてしまいました(3月16日)

 

「もう2日間、家に帰ってません。そこら中に軍隊がいて、完全に閉じ込められてしまいました。外で何が起きているのか何も情報がありません」
(ラサのチベット人住民)

 

■家宅捜索が始まりました(3月16日)

 

「ラサの中国当局は、チベット人を逮捕し、ローラー作戦による家宅捜索を始めました。ダライ・ラマの写真と、暴動に関わった人物を探すため、すべてのチベット人の住居を捜索するという公式の警告が、ラサのすべてのチベット人住人に出されました。捜索と検挙を妨げようとしてはならない、そして、検挙された時、集団で集まってはならないとも警告されています。チベット自治区政府は、中国各地にいるチベット政府職員に対し、3日以内にラサに出頭するよう、すべての政府機関に命じました。彼らは鉄道を守ることを求められています。出頭し損なうと“一大事”になるでしょう」
(ラサからの証言)

 

甘粛省の西北民族大学で抗議行動(3月16日)

 

甘粛省蘭州の西北民族大学のチベット学部のチベット人学生たちが、学校のグランドで平和的なデモを行ないました。1,000人以上の学生が参加し、別の学部のチベット人たちも加わろうとしましたが、制止されました。彼らは、抗議行動は平和的であり、ラサなどでのチベット人への弾圧をやめるよう中国当局に促すものだと宣言しました。彼らはまた、ラサやラプラン寺、そしてチベットの外での抗議行動を起こしたチベット人への連帯の気持ちを表明しました。彼らは『私たちは輝かしい民主主義と生命のために、チベット人たちと連帯する』という横断幕を掲げていました」
(アムド地方からの証言)

 

 

■以下は、2008年3月15日(土曜日)の、RFAによるチベット人に対するインタビューの抜粋

 

■遺体が67あったそうです(3月15日)

 

「私はラサにいます。今日は発砲がありました。亡くなったり、瀕死の状態の大勢のチベット人が、チベット自治区公安の辺りに集められました。信頼できる人から聞いた話では、67の遺体があったそうです。まだ生きている者もいましたが、ほとんどは運ばれてきた時点で亡くなっていました…男性も女性もいます。私は詳しくはわかりません…でも、そこに合計67体集められたことは確かです。情報源は言えませんが、67体は私の知り合いが見たものです。

 

戒厳令が敷かれたと、チベット自治区幹部が公式に発表しました。たった今も、銃声が聞こえます。戦車もたくさん見かけました。チベット人を威嚇するため、時々空に向けて撃っています。カルマ・クンセル地区のような所では、今も発砲しています。チベット人はすべて呼び止められて、身分証をチェックされます。チベット人は政府職員であっても調べられますが、中国人は自由に移動できます。

 

逮捕されたチベット人の多くは、トゥールン方面などラサのいくつかの地域の刑務所に連れて行かれました。ペンポでも、昨夜6人の僧侶が逮捕されました。今日はデモがあり、中国人の商店が焼き討ちにあいました。

 

こうした規制は、少なくとも7〜8日は続くでしょう。自由に移動できなければ、食料を手に入れることができず、すでに食料不足が起こっています。今、中国当局が鎮圧にあたっていますが、こうしたことは郊外にも広がっているのがわかります。

 

これらのデモをどこかの組織が計画したことを示すものはありません。チベット人たちの自発的な反応であり、彼らはデモに飛び入り参加したのです。彼らは『ダライ・ラマ万歳』『チベットに独立を』と叫び、中国の国旗を燃やしました。今聞いた話では、ロカ地方のサムイェ寺でも僧侶が抗議行動を起こしているそうです」
(ラサから)

 

■叫び声が絶え間なく聞こえます(3月15日)

 

「今日、ラプランで大規模なデモがありました。11時45分に始まりました。昨日は、だいたい3,000人から4,000人いましたが、今日はどうでしょうか。『ダライ・ラマ万歳』『チベット独立』などの叫び声が絶え間なく聞こえます。彼らは地元の政府の役所まで行進し、窓ガラスを割るなどして、デモは続いています」
(アムド地方のラプラン寺より)

 

■東チベット・リタンでデモ(3月15日)

 

「3月15日、リタン地域では2つのデモがありました。朝、オトク・ニャクチュカ[拘束されたテンジン・デレク・リンポチェの故郷]出身の遊牧民たちが立ち上がり、しばらくデモをしました。リーダーらのひとりが拘束されました。そして同じ日、[投獄された遊牧民]ロンギャル・アダクと同郷の遊牧民たちもデモを行ない、しばらく叫び声を上げていたところ、僧侶が1人捕まりました。こうして、リタンでは緊張が非常に高まっています。チベット人たちはリタンの町に集まり、何かを計画しています。同時に、政府職員たちもまたチベット人たちの計画を妨げる策を練っています。やり遂げるのはきわめて難しいでしょう。カンゼ州セルシュ県では、チベット独立を呼びかけるビラが1,000枚ほどまかれました。リタンもセルシュも同じカンゼ州にあります」
(カム地方リタンより)

 

■100人以上のチベット人が殺されました(3月15日)

 

中国当局は抗議行動に参加したチベット人を捕まえられるだけ大勢捕まえて、さまざまな刑務所に投獄しています。多くはポタラ宮の裏か、他のラサの4カ所の刑務所に拘置されています。チベット人の抗議行動参加者たちは、これらの刑務所に動物のように閉じ込められました。今朝、私たちが彼らに連絡したところ、殺された者はいませんでした。おそらく外国からの圧力のおかげでしょう。死者の正確な数を知るのは困難です。しかし、さまざまな情報から死者の数を合計すると、100人以上のチベット人が殺されました。土曜の朝も、中国当局は外出禁止令を出して、通りに出て来るチベット人は誰彼ともなく捕まえて投獄しています。現時点では、ラサに平穏や安定の兆しはありません」
(ラサより)

 

■彼らの多くは『ダライ・ラマ万歳』と叫んでいます(3月15日)

 

「今朝知り合いに連絡したところ、ボラやアムチョク、ツ、ガジャ、サンカなどの地域のチベット人の若者数百人がラプランに集まってデモをしました。その地域には数千の人民武装警察が配置されていましたが、今のところ群衆への発砲事件は起きていません。しかし、群衆に催涙弾が発射されました。私の知り合いは、その地域では略奪は見ていないそうですが、催涙ガスのため視界が悪く、事件の全体像は把握しにくいとのことです。昨日より抗議行動の参加者の数が増えたことは事実です。[ラプラン寺には]大雑把に見て3,000人はいます。さまざまな地域のチベット人が集まり、デモが大きくなっています。デモ隊は『ダライ・ラマ万歳』『パンチェン・ラマ釈放』『中国とチベットの平和的な対話を始めよ』などと叫んでいました。『チベット独立』と叫ぶ者もいました。表立って誰かがリードしているというものではなく、さまざまなグループがそれぞれのスローガンを掲げています。彼らの多くは『ダライ・ラマ万歳』と叫んでいます」
(ラサより)

 

■いたるところ軍隊だらけです(3月15日)

 

「今日はいたるところ軍隊だらけです。行ったり来りはできません。家に閉じ込められています。中国のメディアやテレビでは、チベット人10人が殺された、そして、殺した者は犯罪者であると言っています。報道によると、これらはすべて『ダライ・ラマ集団』の仕業です。今、ラサ市内は、誰も動けませんから、何事もなく平静に見えます。しかし、ラサ周辺の郊外地域では中国人とチベット人の衝突がいくつか起こっています」
(ラサより)

 

■これに先立ち、3月14日(金曜日)ラサの抗議行動に参加したチベット人は次のように証言している。

 

■武器を持たないチベット人に発砲したのです(3月15日)

 

「今日、チベット人たちがデモを行なった際、多くの人が殺されました。私たちチベット人には、反撃する武器はありません。ジョカン寺の前に集まった時、私たちに向けて中国人たちが発砲してきたのです。私自身、中国人が群衆めがけて発砲した際、100人以上のチベット人が殺されるのを見ました。発砲したのは中国軍なのです。そして、それはラサで起こり、私自身がその惨劇を目撃しました。殺されたチベット人の多くは若者でした。男も女もいます。…始まったのは午前10時頃でした。…老若男女、いろいろな年代のチベット人が連れ去られ投獄されました。抗議行動に参加したチベット人はラサのいたるところから来ていました。

 

振り返ってみると、すべての中国人の商店は破壊されていました。バルコル地域の中国人の商店で、無傷のところはひとつもないと思います。あらゆる物が路上に積み上げられて燃やされました。多くの自動車が放火され、破壊されました。今もまだ煙があがっているのが見えます。

 

チベット人たちは遺体をジョカン寺の前に集めて、祈りを捧げ、カタを捧げました。親族が遺体を見つけて引き取っていきました。私の家族はひとりも犠牲になりませんでしたが、私もほとんど殺されたようなものです。多くの遺体は自分のように思えました。誰であれ町中をうろうろしていると、逮捕されて殺されてしまいます。

 

先に言ったように、殺されたチベット人の数は100人を下らないと思います。死者たちは600万チベット人のために犠牲になったのです。私たちは武器を持たないのに、中国人が武器を持たないチベット人に発砲したことには失望させられます。

 

中国人は有毒ガスを放ちました。目眩がして、もうろうとさせられるガスです。そうして捕らえられ、連れ去られたのです。その地域では戦車も見ました。数は多くありませんでしたが、私たちを威嚇するために投入されたのです。今、ラサは静かですが、町にはまだ黒煙が見えます。私たちに発砲したのは、中国軍なのです」

 

消されゆくチベット (集英社新書)

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【2008年チベット動乱】よく聞かれる質問集

3月10日以降、チベットのラサなどで起こった「自由なチベット」を求める僧侶や市民の抗議行動に対して、中国当局が武力で鎮圧。多数の死傷者が出ています。
経過のフォローは報道のプロの皆さんに任せるとして、よく聞かれる質問をまとめてみました。
(2008.6.11更新)
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[参考]→【2008年チベット動乱】目撃者の証言集 (1)  / (2)
[参考]→超入門「チベット問題」(I Love Tibet! HP内)
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■「動乱」(暴動)はどこで起こっている?
チベットのラサという町で起こった騒ぎが発端です。
中国の西端にある「チベット西蔵自治区」の区都です。
その後、東隣の青海省四川省甘粛省各地で、それ以上の規模の騒乱と弾圧が続いています。

■「××省」もチベット
チベットはもともと、ヒマラヤ山脈の北に広がるチベット高原ほぼ全体でしたが、中国に組み入れられた後、ラサを中心としたチベット自治区がつくられ、東部は青海省四川省甘粛省雲南省に併合されました。中国や日本のマスコミが「チベット」と言った場合、「チベット自治区」だけを指すことが多いので要注意です。今回の騒乱は自治区だけでなく、チベット人の住む地域全体で起こっています。

■ひとことで言って、どんな「動乱」(暴動)?
チベット人が、中国政府に対して怒っています。

■経緯は?
f:id:ilovetibet:20190503023413j:plain3月10日、数百人の僧侶たちが「自由なチベット」を求めてデモ行進をしました。

中国当局が鎮圧。僧侶らを逮捕。

以降、他の寺や市内各所で抗議行動が起こり、当局が催涙弾で鎮圧。寺院を封鎖。

一般市民も加勢。騒ぎが広まり、放火なども発生。当局が鎮圧。

死者が出たとの報道。中国当局も公式に認める。

中国の情報統制により犠牲者の数など真相は不明のまま。
今も散発的に事件が続いていますし、連れ去られたまま帰って来ない人が大勢います。

 ■テレビで見ると、なんか「暴徒」が暴れてるみたいだけど?
現場を撮影できたのは中国側だけです。当然、人が撃たれたり装甲車が暴れてる映像なんて外に出しません。テレビ番組というのは何か映像を流して時間を埋めないといけないので、ひたすら中国側が提供する映像だけが流れる結果になります。多少解説で補ったところで、残念ながら「暴徒」の姿だけが印象に残ってしまいます。

 ■中国はどんな弾圧をしている?
例えば四川省アバ(Ngawa)州アバ県のキルティ寺に運び込まれたチベット人たちの痛々しい写真から、武器を持たない市民に発砲していることが想像されます。
チベット人権民主センターのページ 【注】正視に耐えない画像が含まれています

 ■そもそも初めのデモの要求は?
Free Tibet」。チベットを、自由にものが言えて、生きていける普通の場所にしてほしい、ということです。

 ■こういう騒ぎはよくあるの?f:id:ilovetibet:20190503024841j:plain

小さな事件はたまにありますが、多数の死者が出てしまったのは1980年終盤以来です。1989年にはラサに1年以上にわたって戒厳令が敷かれました。当時、チベット自治区共産党書記として動乱の制圧にあたったのは、現在の中国国家主席、胡 錦濤氏です。因縁でしょうか。
1988年3月チベットで行なわれたことYouTube動画)

 ■歴史的経緯は?
もう50年以上前のことですが、中国はチベットを武力で併合しました。その過程およびその後、多くのチベット人(一説には120万人)が犠牲になりました。

以来、中国の中でも特に人権や民族文化がおろそかにされる地域となりました。

大量の中国人が移民してきたことによりチベット人は少数派になってしまいました。

チベット人たちが危機感を募らせています。

 ■なぜこのタイミング?f:id:ilovetibet:20190503025052j:plain

中国が北京オリンピックを開こうとしている今、それにふさわしい国かどうか世界中が中国の人権状況に注目しているため、最大にして最後の機会だと位置づけている、のだと思います。実際、聖火リレーが世界中を巡る中で、チベット問題が注目されています。

 ■なぜ3月10日?
1959年、中国軍の侵攻に対してチベット人たちがラサで大規模な抗議行動を起こした記念日だからです。毎年この時期には、規模の差はあれ色々起こります。

 ■なぜラサ?
チベット人が多く集まる中心地。歴代ダライ・ラマ法王以前からチベットの都だからです。

 ■なぜ僧侶?
チベット人は一般に仏教徒です。チベット社会での僧侶の占める役割・影響力は大きく、そのため中国当局から目の敵にされてきました。最大の被害者として、常に最初に声を上げる存在です。今回最初に行動を起こしたのは、チベット仏教界の最高峰であるデプン寺、セラ寺といった有名寺院の僧侶たちでした。

 ■普通のチベット人はどう思っている?f:id:ilovetibet:20190503025223j:plain
何よりも僧侶を乱暴に扱ったことが一般のチベット人の反感を招きました。デモに加勢しただけでなく、放火や略奪などの行為に至った者もいたようです。一般にチベット人は穏やかですが、日頃から中国政府・中国人への不満が鬱積しており、それが爆発してしまったのでしょう。
多くの普通のチベット人は平穏な生活を望んでおり、僧侶たちに同情しつつも、実際には何もできません。それをやると人生や生命を投げ打つことになるのを歴史から学んでいます。
ただ、外の世界にいる人々に注目してほしいと願っています。

 ■デモは計画的?
もちろん自然発生的なものではないでしょう。「高僧の後継者を中国当局の許可制にする」等、中国でのチベット仏教への抑圧は近年厳しさを増しており、仏教界ではずっと不穏な動きが続いていたという伏線もありました。

 ■中国は「ダライ・ラマ集団の策動」とか言ってるけど?
ほとんどのチベット人ダライ・ラマ法王の支持者・信者・ファンなので、ダライ・ラマ集団って言われれば、その通りかもしれませんが、どういう集団なのか中国側から具体的な説明はありません。証拠を残す記録要員を用意していない点から、外国の誰かが仕掛けた可能性は低そうです。

 ダライ・ラマはどうしてる?
1959年以来インドに亡命中なので、直接は何もできません。中国側にも、チベット人にも、暴力を用いないよう呼びかけています。騒乱がおさまらなければ辞任するとまで言ってます。北京五輪の開催にも反対していません。

 チベット人は独立を要求してるの?
ダライ・ラマ法王は独立を要求してはいません。チベット人の(本当の意味での)自治権を求めています。そして、チベット問題を解決するために中国との対話を求めています。
ただし、一般のチベット人の中には、今の中国では自治なんて無理という意見も当然あり、心情的には独立を求める声が強いようです。

 ■「対話」が進んでるらしいけど?
中国とチベット亡命政府との協議が始まっています。しかし、こうした協議は2002年から6回行なわれましたが、実質的な進展はありません。その間「いま交渉中だから中国を刺激しないように」と、世界中のチベットサポートの動きは停滞しました。今回、中国側から協議しようと申し出があったのも、単に騒ぎを抑えて時間稼ぎをするだけの目的かもしれません。少なくとも、密室ではなく、第三国を交えての対話が必要と言えるでしょう。

 ■中国人とチベット人の関係は?
チベットには大勢の中国人(漢民族)が移住し、あるいは出稼ぎとして暮らしています。歴史的な経緯もあり、残念ながら一般にあまり仲がいいとは言えません。

 チベット以外にもチベット人は大勢いる?
1959年にダライ・ラマ法王がインドに亡命した後、約10万人のチベット人がインドやネパールに逃れて難民となりました。そのまま帰国できず、2世・3世の世代が増えている上、今も毎年数百人のチベット人が亡命しています。

 ■ラサと連絡はとれない?
ラサまでの光ファイバー回線を日本のODAで敷いてくれたおかげか、電話もメールも結構つながるようです。もちろん盗聴・監視されているでしょうから、内容には要注意。

 ■何かできることは?
↓のサイトをご覧下さい。さまざまなイベント・アクションの案内、関係各所へのFAXやメールによるアピールの文例等があります。
チベット・サポート・ネットワーク・ジャパン 聖火リレー胡錦濤来日、洞爺湖サミット、そして北京五輪に向けて、各地でチベット関連のイベントが予定されています。

 (時々更新しています。長くなってすみません)
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[行動]→チベット・サポート・ネットワーク・ジャパン ↑各種イベント・アクションの案内、関係各所へのFAX・メールのテンプレート他
[参考]→【2008年チベット動乱】目撃者の証言集 (1)  / (2) [参考]→超入門「チベット問題」(I Love Tibet! HP内)
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消されゆくチベット (集英社新書)

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