チベット式

チベットの今、そして深層 by 長田幸康(www.tibet.to)

【本】『玄奘三蔵 西域・インド紀行』(慧立・彦悰)

前回に引き続き玄奘関係。『大唐西域記』は玄奘自身が皇帝・太宗のために記した地誌、報告書だった。

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一方、玄奘旅行記そして伝記として、さらに詳しいとされているのが、弟子によって編纂された『大慈恩寺三蔵法師伝』だ。その前半を和訳したのが『玄奘三蔵 西域・インド紀行』だ。本書は前半のみだが、訳者はもともと全訳を刊行したことがある。さらに玄奘の行程を(一部を除いて)ほぼ踏査したとのこと。さすが。

玄奘三蔵 (講談社学術文庫)

玄奘三蔵 (講談社学術文庫)

 

さて、その行程のことで『大唐西域記』の中でも気になっていたのが、玄奘は書いてある場所すべてに行ったわけではないということ。もともと『大唐西域記』では、伝え聞いた「伝聞国」を「至●●」と記し、「親践国」(実際に行ったという意味らしい)を「行●●」と記して区別したそうだ。しかし、『大慈恩寺三蔵法師伝』ではどちらも実際に行ったかのように書かれてしまっている。この書き分けによると、玄奘はウディヤーナに実際には行っていない、もしくは、帰路に行ったということらしい。

あと、南インド玄奘はナーランダ僧院で5年ほど学んだ後、今のチェンナイ(マドラス)付近まで南下し、そのあとデカン高原の南を回ってはるばる西インドにまで赴いた後に、ナーランダに戻ったことになっている。今では跡形もないであろうが、当時まだあちこちに仏教寺院があり、行く先々で学んでいたようだ。が、これもどこまで本当なのかよくわからない。

そもそも、唐を発った年や、ガンダーラカシミールを経てナーランダに到着した年さえ、実は確定していないのだという。伝記が数種類あり、少しずつ内容が異なるからだ。といっても釈迦の生年のように何百年もの幅で異説があるわけではなく、数年の差なのだが。

玄奘の求法のルートについては、こちら(↓Wedge Infinity 2011年8月23日)の記事の中の地図が好き。なぜなら日本列島が丸ごと載っているからだ。普通、日本でいえばどれくらいの距離なのか知りたいでしょ。こういう広範囲の地図が意外にない。ほとんどの地図は長安から西だけだ。この地図は実際に行ったルートと、行ったかどうか疑問のあるルートの区別もわかりやすい。

wedge.ismedia.jp

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↑Wedge Infinity 2011年8月23日)より

玄奘の17年にわたる旅のスケールがよくわかる。とともに、このルート、何かを避けているように見えないだろうか? そう、避けられているのは、真ん中の白っぽい色の部分、つまりチベット高原だ。玄奘長安にいた頃から、ナーランダで『瑜伽師地論』を学ぶことを目的に定めていたようだ。だとすると、チベットを突っ切れば(距離的には)ずっと近そうに見える。

玄奘がインドにいた頃、唐からチベット文成公主が嫁入りした。唐とチベットを結ぶ「唐蕃古道」はすでに通商ルートとして機能していただろう。あるいは雲南からインドシナ経由という選択肢はなかったのだろうか。と、当時の情勢を何も知らずに適当なことを書いているが、戦争やヒマラヤや密林で、実用的ではなかったのだろう。かつて法顕も通ったおなじみのシルクロードルートのほうがずっと安全だったはずだ。ソグド人らの仏教ネットワークもあったようだし。

玄奘の旅については、ナーランダに着くまでに、数カ月単位であちこちに寄り道(?)をしているのも面白い。雪どけ待ちといった実用的な理由だけでなく、めったにお目にかかれないマハーチーナ(大支那)の僧侶ということで、国王に求められて滞在したり、講義をしたり、学んだり、けっこう人気者なのだ。こうした諸々の滞在期間を足していくと計算が合わないといったことも起こっている。

というわけで、興味の尽きない玄奘の旅程。これについて、もう1冊読み終わっているはずが、Amazonからの配送が遅延しており叶わないでいる。読めるのは明日になりそうだ。アベノマスクとどちらが先に届くか?