今年の年賀状です。
そもそも犬のことを調べていたわけではないのだ。コロナ禍の東京イジメでお盆に帰省できない人が多く、お墓参りの代行が盛況だというニュースを目にしたのがきっかけだった。それなら、お寺や神社の参拝代行もあるんじゃないかと思い、調べている中で偶然見つけたのが本書『犬の伊勢参り 』(仁科邦男著)。ちなみに、墓参り代行はすでに過当競争になっているが、代理参拝はまだ本格的にはマネタイズされていないようなので、どなたか趣味と実益を兼ねて、いかがだろうか? そもそも代理でいいのかという疑問はさておき、需要はあるようだ。
そのものズバリの書名。つまり犬がお伊勢参りをしたというお話、しかも実話である。 江戸時代には、みんなでお伊勢参りに出かける「おかげ参り」が全国的に大流行した。猫も杓子もという言葉があるが、犬も伊勢神宮に詣でたという。浮世絵などにも描かれている。
犬のお伊勢参りには、いくつかパターンがあった。オーソドックスなのは、事情があって行けない人が身近な犬に代理参詣(代参)を託したというもの。参詣に行く同じ村の人などに預けるのが一般的だ。これなら別に驚かない。
ステキなのは、犬だけのお伊勢さん単独行! 代参犬だと記した札をぶらさげ、いくらかの旅費をくくりつけて送り出す。すると、お伊勢参りに向かう人たちが見つけ、道中のエサの世話をしながら、宿場から宿場へと送り届けてくれたという。伊勢神宮ではちゃんとお札をいただき、また色々な人たちのお世話になりながら、無事故郷まで帰ってきた。しかも東北地方などの遠方にまで。
中には、村からいなくなった犬が、勝手に伊勢参りに行って帰郷した例もあったという。たまたま人についていったら代参犬だと誤解され、人々の善意によって、図らずも詣でてしまったようだ。
犬の伊勢参り。個人的には、すんなり受け入れられる話だ。犬に信心があったということではなく、人間の側に信心があったのだろう。少し前のチベットには、ほぼ一文無しで聖地巡礼している人がたくさんいた。巡礼者に布施をすることが功徳となるため、だれもが手を差し伸べるからだ。江戸時代の日本にも、そうした信仰心があり、進んで犬を手助けしたのだろう。と想像できる。
しかし、そんなの嘘だろうと思う人も多いようだ。著者は史料をたっぷり駆使して、犬のお伊勢参りは本当にあったんだと明らかにしてくれている。そもそも、犬と僧侶は禁忌とされ、伊勢神宮に近づけなかった時代、僧侶を差し置いて、けっこうな数の犬がお伊勢参りを叶えていたのだ。もう単純に面白い本。
江戸時代には、飼い犬は珍しく、村犬・町犬として、気ままに過ごしていたようだ。明治時代になると犬も管理されるようになり、長距離移動も叶わなくなった。そして、お伊勢参りをする犬は姿を消した。
↓2007年、ラサの北京東路。どこかに運ばれていくチベット犬の哀しげな姿。
ナショジオの『メーデー! 航空機事故の真実と真相』は、その名の通り、航空機事故を大真面目に検証する番組だ。なんと現在シーズン18! どんだけ事故が多いんだ。どこかの地球外生命体がこの番組だけを見ていたら、この星の人々はほんの少しの距離を命がけで移動している…と憐れむのではないだろうか。しかし実際には、ほとんどのフライトは無事に目的地に着く。交通事故に遭う確率のほうがよほど高い。「何も起こりませんでした」という記録が伝えられることはないため、めったにない事故の印象だけが残るのだ。
そこで遣唐使。前回の記事でこう書いて逃げたところがある。
鑑真も大変だったが、招きに行く側も大変だった。まず遣唐使船というのが非常に危険だ。というイメージだけで書き進めそうになったが、そこは理系なので、生存率を確認しないではいられない。すると、実際のところはよくわからないらしい。この話は後日あらためて。まあ唐に渡るだけで一苦労だったはずだということに、いったんしておく。
ずっと昔、7世紀から9世紀の話。船も航海の技術もそんなに進んでなかったんじゃないか。そう想像しがちだが、実際には、とうの昔から「海のシルクロード」によって中国大陸とヨーロッパ・中東は結ばれていた。『天平の甍』にも、インドやペルシャなど異国の船でにぎわう広州の港の様子が描かれている。ただ、もしかして日本だけは遅れていたのかもしれない、という恐れはある。遣唐使は実際のところどうだったんだろう? という実態を明らかにしたのが本書だ。
書名の通り、遣隋使に続いて始まった最初の遣唐使から、菅原道真が行くはずだった遣唐使が中止されるまで、すべての航海が記されている。 正直、遣唐使について他の本を読んでいないので自信はないが、こうした「すべてまとめました」という試みは初めてのようだ、意外にも!
そもそも、全部で何回なのか、数え方が色々あって、ややこしいらしい。本書では、任命されただけで実行されなかった使節を除き(←当たり前だと思うが)、その他の微妙な回も除いた上で「15回」とカウントしている。
個別の航海の諸事情もそれぞれ面白いのだが、個人的に気になっていたのが成功率。これは端的にまとめられていて、
どうだろう?
予想以上に成功率が高いと思うのでは?
たしかに空海も最澄も円仁も、無事に帰国した。吉備真備(きびの まきび)のように2度往復した者さえいる。ただ「無事でした」とわざわざ記録する者は少ないのだろう。いかに危険な目にあったかを語り伝えるのが人間というものだ。実際、穏やかな航海ばかりではなかっただろうし。
また、私もすっかり誤解していたのが鑑真の渡日。遣唐使船で来日した鑑真は「5度失敗し、6度目で渡日」と言われる。嘘ではない。しかし、3度は海に出る前に発覚して頓挫。1度は近海で座礁した。本格的に(?)東シナ海に出て失敗したのは1度のみだった。しかも遣唐使船ではない。
このように本書は、私が持っていたような通俗的なイメージを含めて、「遣唐使=超危険」といった「通説の誤り」をただしてくれる。たとえば、
通説「日本人は東シナ海の季節風の知識を持っていなかったから決死の覚悟だった」
実際「季節風を利用したからこそ成功した」
古くから遣唐使研究者界隈には、どういうわけか、東シナ海における風向きへの基本的な誤解(というか無知)があるという。実際びっくりするほど基本的なことなのだが。こうした研究者の著作を、よりによって司馬遼太郎が下敷きにして『空海の風景』を書いてしまったことが、誤解の定着に輪をかけたというのが本書の主張だ。
もうひとつ興味があったのが、船の形。映画などで何となく見かける「あの形」に根拠はないらしい。出典は遣唐使から300年もたった鎌倉時代に絵巻物に描かれた姿。その時点ですでに想像の産物だろう。
面白いのは、遣唐使として錚々たる人々が大量に派遣されながら、信じられないことに、船の形についての記録がほとんどないということ。乗り物好きの理系とか、旅好きとか、絵が好きとか、ひとりぐらいいなかったのだろうか、よくわからない。「宇宙人の目撃者にかぎって絵が下手である」という都市伝説と、映画『コンタクト 』の名台詞「詩人を乗せるべきだった」を同時に思い出した。
まだまだ興味深いことはたくさんあるのだが、ネタバレが過ぎるのでこのへんでやめておこう。遣唐使はたしかに大陸に学びに行くためのものだったが、だからといって「航海や造船の技術も劣ってました」なんて卑屈にならなくてもいいと、よくわかった。昔から海人族だっていたことだし、技術はすでにあっただろう。なかったとしても、航海や造船こそ真っ先に学ぶんじゃないか、普通。
『攻殻機動隊SAC_2045』の続きを見ようと思ったら、そういえば『空旅中国』に鑑真の回があったはず、と急に思い出して、NHKオンデマンドをチェック。ドローン空撮が目玉のこの番組、空海・玄奘・茶馬古道など、仏教・チベットを何かとフィーチャーしてくれる。鑑真編、やっぱりあった。ナレーションは近藤正臣。玄奘編もそうだった。
ご存知の通り、唐の僧侶、鑑真は5回も渡航に失敗し、失明までした上で、6回目でついに来日を果たした。鑑真は自ら日本に赴こうと思い立ったわけではない。招きに行った日本人たちがいるのだ。それが遣唐使と一緒に唐に渡った僧侶たち。そのひとり、普照を主人公にして、鑑真来日の過程を描いたのが『天平の甍』だ。日本人として大変お恥ずかしい話だが、井上靖は初めて読んだ。これまで読まなかったことを後悔している。
奈良時代、すでに仏教は伝来していたものの、戒律を正式に授ける戒師がおらず、戒律がないがしろにされていた。税金逃れのために、勝手に僧を名乗る輩もいたりして。本来、10人以上の僧(三師七証)の前で授戒しないと、正式な僧侶とは呼べない。そこで戒師を招かなきゃということで、唐に派遣されたのが興福寺の栄叡(ようえい)と大安寺の普照(ふしょう)だ。
鑑真も大変だったが、招きに行く側も大変だった。まず遣唐使船というのが非常に危険だ。というイメージだけで書き進めそうになったが、そこは理系なので、生存率を確認しないではいられない。すると、実際のところはよくわからないらしい。この話は後日あらためて。まあ唐に渡るだけで一苦労だったはずだということに、いったんしておく。
また、初めから鑑真を招くと決まっていたわけではない。たいした情報もないまま唐に渡ったのだ。まず誰を招くのかから始めて、鑑真に会うまでに実に10年を費やしている。それから鑑真を口説いて、なんやかやで、鑑真来日にまで21年かかった。その間には奈良で大仏が建立されたりして、世の中ずいぶん変わってしまっていた。
さらに大変なのが、唐の国自体が、外国への出国を禁じていたことだ。玄奘も隠れて旅立った。鑑真も高僧だったため、変な動きをすると目立ってしまう。日本へ行こうとしていることがバレないように、という余計な苦労を強いられた。実際、弟子に密告されたりしている。
仮に旅立てたとしても、船が思うように進まない。出発地の揚州からまっすぐ西に向かえば九州のどこかへ着きそうなものだが、一度などは南へ流されて、なんと「中国のハワイ」海南島に流されたりしている。そこから陸路でまた桂林、広州を経て揚州に戻り、再起を図ったというからすごい執念だ。
『天平の甍』は、その鑑真の「日本に戒律を、正式な仏教を伝えよう」というモチベーションを深掘りしているわけではない。鑑真は本心をあまり語らない師として描かれている。重きを置いているのは、迎えに行った側の日本人たちの人間模様だ。
中でも印象深いのは栄叡と普照の対比。初めから志が高く、鑑真を招くのに熱心だった栄叡は、海南島から揚州に戻る途中、広州で病死してしまう。一方、なかば成り行きで栄叡に引っ張られるかたちだった普照が、鑑真とともに渡日を果たしてしまった。しまった、て言い方はないか。
鑑真は唐招提寺を創建し、日本の僧侶らに戒を授け、ここに正式な僧侶がはじめて誕生した。日本仏教の正式な始まりだ。チベットでいえば、ナーランダ僧院から招かれたシーンタラクシタ(↓2001年タントゥク寺で撮影)がサムイェ寺で「試みの七人(または六人)」に戒律を授けたことに相当する歴史的な大事件だった。
こうした鑑真の華々しい活躍をアシストした普照についての記録はあまりなく、没年さえわかっていない。『空旅中国』によると、海南島の三亜には、鑑真・栄叡・普照など5名の僧侶の像が立っている。また、広東省肇慶の慶雲寺には、その辺りで命を落とした栄叡が祀られているそうだ。
困るのは『天平の甍』で、情熱的な栄叡、淡白な普照といったキャラがすっかり(自分の中で)印象づけられてしまったことだ。鑑真についての記録は、没後に書かれた伝記『唐大和上東征伝』くらいしかないのだから、出来事や旅程はともかく、人物像なんてほとんど創作のはず。栄叡・普照以外のサブキャラも魅力的すぎる。司馬遼太郎同様、話が面白すぎて、史実がどうでもよくなってしまうという歴史小説の醍醐味をひさびさに実感することができた。次は『敦煌』あたりを読もうと思う。
ひとことで言うと「昔の旅」の写真の本。どれくらい昔かというと、1980〜90年代だ。本書の帯にもあるように「バックパッカーが自由に旅できた時代」。もちろん今だって自由に旅はできる場所は多いのだが、国の発展や政情不安によって、バックパッカーから見れば、自由さが失われてしまったと思える場所もある。
本書で「世界で最も変わってしまった場所」として、まず中国が登場するのは、本当にその通りだと思う。兌換券から人民元への闇両替、2泊3日硬座の列車旅、いかに中国人ぽく振舞って人民料金で切符を買ったり観光地に潜入するかの攻防などなど、バックパッカー的には挑戦ネタに困らない場所だった。あの自転車だらけの国が、今のように全国民が顔認証で管理される大国になってしまうとは誰も思わなかっただろう。
中国に続いて紹介されているのはクンジェラブ峠とチベットだ。クンジェラブ峠はパキスタンが側から越えたはずだがほぼ記憶がない。ものすごく小さなジープ状の車に押し込まれ、写真を撮る余裕すらなかった。いや国境の標識ぐらいは撮ったはずだが、その後、カシュガルで追い剥ぎにあいカメラとフィルム一式すべて盗られたので何も残っていないのだ。カシュガルからウルムチはバスで3日だったと思うが、こちらのほうが記憶にあるかな。
そしてチベット。ろくに公共交通機関もなく、県庁所在地なのにバスが3日に1本とか。それでも輸送トラックをヒッチして、けっこう色々な所にいくことができた。いちおう外国人が行ってよい場所は建前上限られていたはずだが、公安や解放軍など見張る側もたいてい大らかで、抜け道だらけで融通がききまくっていた。道路も交通機関も法律も整備された今と比べれば、不便だらけだったが、バックパッカー目線だけでいえば、とても自由だったのだ。
蔵前さんも本書で書いている通り、そうやって自由に旅できる日がずっと続くと、漠然と思っていた。というか、もっと自由になるとさえ勝手に期待していた。そして、裏切られた。まあ一方的な感傷なわけだが。
発展して便利になったというポジティブな(?)理由ではなく、戦争などによってアクセスできなくなったり、物理的に失われてしまった場所もある。そんなアジア・中東・アフリカの「失われた旅」を、いかにも昔っぽい味わいの写真とともにたどったのが本書だ。個人的にも蔵前さんから数年遅れで似たようなところに行っているので、どっぷり浸れる。
本書では取り上げられていないが、個人的には香港。中国に返還された後もたいして変化はなかったが、まさか香港人自身のデモで行けなくなるとは思わなかった。あげくはコロナ禍で、もはや国内でさえ自由に移動できなくなったわけだ。
↓インスタに載せた写真から、1987年、香港の雑居ビル、チョンキンマンション(重慶大厦)のエレベーターにて。たしか16階まであって、安宿がたくさん入居していた。中国の長期ビザもここで取れた。商店やオフィス、ホテルはもちろん、工場まで入っていて、まさに雑居ビル。
↓こちらは香港のマンゴースイーツ「許留山」(Huilaushan)にて。中国本土にも進出したが、コロナでどうなっただろうか。
OSADA Yukiyasu on Instagram: “#now at another #Huilaushan 許留山, #TST, #Hongkong”
といった具合に懐かしんでいるわけだが、中にはたいして変わっていない場所もある。それがインド。蔵前さんも「変わった気がしない」と書いている。もちろん変わってないわけがないが、雰囲気というか、佇まいのようなものが変わりきっていないように感じるのだ。だから、これから行く人も間に合うと思う。それがインド時間。
↓こちらの写真はインスタには載せていないが、1986年、北インド、リシケシにて。チラム(マリファナ用のパイプ)をつくる職人だ。蔵前さんの『ゴーゴー・インド』にも「プク」として登場する。私は「クプ」と聞いた。「Kupu Baba」と名前を書いてくれたのだ。どっちでもいいけど。スイス・コテージというすごい名前の宿に泊まったら、隣に住んでいた。一緒に遊びに行こうと誘われて訪れたのが、チベット難民が住む町、ムスーリー。そこで初めてチベット人に出会ったのだった。クプの狙いは、肉と酒。リシケシは聖地なので、どちらも禁じられているからだ。
↓これもインスタに載せていないが、1992年の、、マドラスかな。南インド。あ、今はチェンナイっていうんですね。チェンナイには今年の春、行くかも、という予定だったが、それどころではなくなってしまった。
ちょうど今日、南インド料理屋のミールズ(定食)をテイクアウトしたら、カレーもライスもとてつもない量。もともと、おかわり自由なので、その分も入れてくれているのだろう。食い過ぎて眠れなくなって、これを書いている次第。↓インスタより。
OSADA Yukiyasu’s Instagram post: “#経堂 #スリマンガラム のテイクアウトのミールズ、1つ一つ袋に入ってる☆ #StayHome #MealsReady”
では本日はこのへんでー☆
ひきつづき玄奘関連の本。前回ご紹介した『玄奘三蔵 西域・インド紀行』の訳者による『三蔵法師の歩いた道 巡歴の地図をたどる旅』が到着した。玄奘の求法の旅の足跡を著者自身がたどるという内容。
著者の旅はシルクロードやインドの仏跡はもちろん、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、アフガニスタンにまで及ぶ。玄奘の生涯を時系列で紹介しながら、その場所が今どうなっているのか、実際に訪れて記してくれている。玄奘の生涯や人となりも含めて、この1冊でだいたい、しかも正しく知ることができる。
玄奘が旅したルートはもともと色々な民族・宗教が混在している上、中国・ロシア・インドといった大国の国境が入り組んでいるエリアが多く、現在の旅行事情も複雑だ。入域や国境越えが叶わなくなっている場所も多い。
玄奘の時代にはパスポートとかIDといった面倒なものはなかった代わりに、山越え、砂漠越え、山賊といった危険がつきものだった。とはいえ行く先々で厚遇されることも多く、仏教を重用するインド諸国の王様たちに「ぜひもっと滞在して」と引きとめられて、なかなか離してもらえなかった、なんて微笑ましい(?)逸話も。そんなこんなで旅は17年に及ぶこととなった。
ナーランダで学ぶという目的を果たし、無事長安に帰った後の生涯も、本書は最後まで網羅している。そこで思い出したのが、埼玉県岩槻氏にある慈恩寺だ。すっかり忘れていたのだが、2015年に行ったことがある。拙著『ぶらり東京・仏寺めぐりり』(幻冬舎)のために原稿も書いた気がするけど最終的にはボツ。東京じゃないし。。
慈恩寺の立派な玄奘塔。慈恩寺とは少し離れた場所にそびえ立っている。ただ名前がついているだけではなく、なんと玄奘の遺骨が祀られているのだ。もともと長安にあったはずのものが行方不明になり、日中戦争中に日本軍が南京で再発見。中国側に返還したという縁があり、一部が日本に贈られたのだ。さらに奈良の薬師寺にも分骨され、玄奘三蔵院に祀られている。
というわけで、玄奘シリーズはいったん終了!
前回に引き続き玄奘関係。『大唐西域記』は玄奘自身が皇帝・太宗のために記した地誌、報告書だった。
一方、玄奘の旅行記そして伝記として、さらに詳しいとされているのが、弟子によって編纂された『大慈恩寺三蔵法師伝』だ。その前半を和訳したのが『玄奘三蔵 西域・インド紀行』だ。本書は前半のみだが、訳者はもともと全訳を刊行したことがある。さらに玄奘の行程を(一部を除いて)ほぼ踏査したとのこと。さすが。
さて、その行程のことで『大唐西域記』の中でも気になっていたのが、玄奘は書いてある場所すべてに行ったわけではないということ。もともと『大唐西域記』では、伝え聞いた「伝聞国」を「至●●」と記し、「親践国」(実際に行ったという意味らしい)を「行●●」と記して区別したそうだ。しかし、『大慈恩寺三蔵法師伝』ではどちらも実際に行ったかのように書かれてしまっている。この書き分けによると、玄奘はウディヤーナに実際には行っていない、もしくは、帰路に行ったということらしい。
あと、南インド。玄奘はナーランダ僧院で5年ほど学んだ後、今のチェンナイ(マドラス)付近まで南下し、そのあとデカン高原の南を回ってはるばる西インドにまで赴いた後に、ナーランダに戻ったことになっている。今では跡形もないであろうが、当時まだあちこちに仏教寺院があり、行く先々で学んでいたようだ。が、これもどこまで本当なのかよくわからない。
そもそも、唐を発った年や、ガンダーラやカシミールを経てナーランダに到着した年さえ、実は確定していないのだという。伝記が数種類あり、少しずつ内容が異なるからだ。といっても釈迦の生年のように何百年もの幅で異説があるわけではなく、数年の差なのだが。
玄奘の求法のルートについては、こちら(↓Wedge Infinity 2011年8月23日)の記事の中の地図が好き。なぜなら日本列島が丸ごと載っているからだ。普通、日本でいえばどれくらいの距離なのか知りたいでしょ。こういう広範囲の地図が意外にない。ほとんどの地図は長安から西だけだ。この地図は実際に行ったルートと、行ったかどうか疑問のあるルートの区別もわかりやすい。
玄奘の17年にわたる旅のスケールがよくわかる。とともに、このルート、何かを避けているように見えないだろうか? そう、避けられているのは、真ん中の白っぽい色の部分、つまりチベット高原だ。玄奘は長安にいた頃から、ナーランダで『瑜伽師地論』を学ぶことを目的に定めていたようだ。だとすると、チベットを突っ切れば(距離的には)ずっと近そうに見える。
玄奘がインドにいた頃、唐からチベットに文成公主が嫁入りした。唐とチベットを結ぶ「唐蕃古道」はすでに通商ルートとして機能していただろう。あるいは雲南からインドシナ経由という選択肢はなかったのだろうか。と、当時の情勢を何も知らずに適当なことを書いているが、戦争やヒマラヤや密林で、実用的ではなかったのだろう。かつて法顕も通ったおなじみのシルクロードルートのほうがずっと安全だったはずだ。ソグド人らの仏教ネットワークもあったようだし。
玄奘の旅については、ナーランダに着くまでに、数カ月単位であちこちに寄り道(?)をしているのも面白い。雪どけ待ちといった実用的な理由だけでなく、めったにお目にかかれないマハーチーナ(大支那)の僧侶ということで、国王に求められて滞在したり、講義をしたり、学んだり、けっこう人気者なのだ。こうした諸々の滞在期間を足していくと計算が合わないといったことも起こっている。
というわけで、興味の尽きない玄奘の旅程。これについて、もう1冊読み終わっているはずが、Amazonからの配送が遅延しており叶わないでいる。読めるのは明日になりそうだ。アベノマスクとどちらが先に届くか?