チベット式

チベットの今、そして深層 by 長田幸康(www.tibet.to)

【本】『遣唐使全航海』(上田 雄)/遣唐使の成功率は?

ナショジオの『メーデー! 航空機事故の真実と真相』は、その名の通り、航空機事故を大真面目に検証する番組だ。なんと現在シーズン18! どんだけ事故が多いんだ。どこかの地球外生命体がこの番組だけを見ていたら、この星の人々はほんの少しの距離を命がけで移動している…と憐れむのではないだろうか。しかし実際には、ほとんどのフライトは無事に目的地に着く。交通事故に遭う確率のほうがよほど高い。「何も起こりませんでした」という記録が伝えられることはないため、めったにない事故の印象だけが残るのだ。

そこで遣唐使前回の記事でこう書いて逃げたところがある。

鑑真も大変だったが、招きに行く側も大変だった。まず遣唐使船というのが非常に危険だ。というイメージだけで書き進めそうになったが、そこは理系なので、生存率を確認しないではいられない。すると、実際のところはよくわからないらしい。この話は後日あらためて。まあ唐に渡るだけで一苦労だったはずだということに、いったんしておく。 

ずっと昔、7世紀から9世紀の話。船も航海の技術もそんなに進んでなかったんじゃないか。そう想像しがちだが、実際には、とうの昔から「海のシルクロード」によって中国大陸とヨーロッパ・中東は結ばれていた。『天平の甍』にも、インドやペルシャなど異国の船でにぎわう広州の港の様子が描かれている。ただ、もしかして日本だけは遅れていたのかもしれない、という恐れはある。遣唐使は実際のところどうだったんだろう? という実態を明らかにしたのが本書だ。

遣唐使全航海

遣唐使全航海

  • 作者:上田 雄
  • 発売日: 2006/11/25
  • メディア: 単行本
 

書名の通り、遣隋使に続いて始まった最初の遣唐使から、菅原道真が行くはずだった遣唐使が中止されるまで、すべての航海が記されている。 正直、遣唐使について他の本を読んでいないので自信はないが、こうした「すべてまとめました」という試みは初めてのようだ、意外にも!

そもそも、全部で何回なのか、数え方が色々あって、ややこしいらしい。本書では、任命されただけで実行されなかった使節を除き(←当たり前だと思うが)、その他の微妙な回も除いた上で「15回」とカウントしている。

個別の航海の諸事情もそれぞれ面白いのだが、個人的に気になっていたのが成功率。これは端的にまとめられていて、

  • 36隻のうち26隻は無事に日本に帰着(7割強が往復に成功)
  • 人数ベースでは8割強が帰国

どうだろう?
予想以上に成功率が高いと思うのでは?

たしかに空海最澄も円仁も、無事に帰国した。吉備真備(きびの まきび)のように2度往復した者さえいる。ただ「無事でした」とわざわざ記録する者は少ないのだろう。いかに危険な目にあったかを語り伝えるのが人間というものだ。実際、穏やかな航海ばかりではなかっただろうし。

また、私もすっかり誤解していたのが鑑真の渡日。遣唐使船で来日した鑑真は「5度失敗し、6度目で渡日」と言われる。嘘ではない。しかし、3度は海に出る前に発覚して頓挫。1度は近海で座礁した。本格的に(?)東シナ海に出て失敗したのは1度のみだった。しかも遣唐使船ではない。

このように本書は、私が持っていたような通俗的なイメージを含めて、「遣唐使=超危険」といった「通説の誤り」をただしてくれる。たとえば、

通説「日本人は東シナ海季節風の知識を持っていなかったから決死の覚悟だった」

実際「季節風を利用したからこそ成功した」

古くから遣唐使研究者界隈には、どういうわけか、東シナ海における風向きへの基本的な誤解(というか無知)があるという。実際びっくりするほど基本的なことなのだが。こうした研究者の著作を、よりによって司馬遼太郎が下敷きにして『空海の風景』を書いてしまったことが、誤解の定着に輪をかけたというのが本書の主張だ。

もうひとつ興味があったのが、船の形。映画などで何となく見かける「あの形」に根拠はないらしい。出典は遣唐使から300年もたった鎌倉時代に絵巻物に描かれた姿。その時点ですでに想像の産物だろう。

面白いのは、遣唐使として錚々たる人々が大量に派遣されながら、信じられないことに、船の形についての記録がほとんどないということ。乗り物好きの理系とか、旅好きとか、絵が好きとか、ひとりぐらいいなかったのだろうか、よくわからない。「宇宙人の目撃者にかぎって絵が下手である」という都市伝説と、映画『コンタクト 』の名台詞「詩人を乗せるべきだった」を同時に思い出した。

まだまだ興味深いことはたくさんあるのだが、ネタバレが過ぎるのでこのへんでやめておこう。遣唐使はたしかに大陸に学びに行くためのものだったが、だからといって「航海や造船の技術も劣ってました」なんて卑屈にならなくてもいいと、よくわかった。昔から海人族だっていたことだし、技術はすでにあっただろう。なかったとしても、航海や造船こそ真っ先に学ぶんじゃないか、普通。

遣唐使全航海

遣唐使全航海

  • 作者:上田 雄
  • 発売日: 2006/11/25
  • メディア: 単行本
 

 

【本】『天平の甍』(井上靖)/鑑真とか遣唐使船とか

攻殻機動隊SAC_2045』の続きを見ようと思ったら、そういえば『空旅中国』に鑑真の回があったはず、と急に思い出して、NHKオンデマンドをチェック。ドローン空撮が目玉のこの番組、空海玄奘・茶馬古道など、仏教・チベットを何かとフィーチャーしてくれる。鑑真編、やっぱりあった。ナレーションは近藤正臣玄奘編もそうだった。

ご存知の通り、唐の僧侶、鑑真は5回も渡航に失敗し、失明までした上で、6回目でついに来日を果たした。鑑真は自ら日本に赴こうと思い立ったわけではない。招きに行った日本人たちがいるのだ。それが遣唐使と一緒に唐に渡った僧侶たち。そのひとり、普照を主人公にして、鑑真来日の過程を描いたのが『天平の甍』だ。日本人として大変お恥ずかしい話だが、井上靖は初めて読んだ。これまで読まなかったことを後悔している。

天平の甍 (新潮文庫)

天平の甍 (新潮文庫)

  • 作者:靖, 井上
  • 発売日: 1964/03/20
  • メディア: 文庫
 

奈良時代、すでに仏教は伝来していたものの、戒律を正式に授ける戒師がおらず、戒律がないがしろにされていた。税金逃れのために、勝手に僧を名乗る輩もいたりして。本来、10人以上の僧(三師七証)の前で授戒しないと、正式な僧侶とは呼べない。そこで戒師を招かなきゃということで、唐に派遣されたのが興福寺の栄叡(ようえい)と大安寺の普照(ふしょう)だ。

鑑真も大変だったが、招きに行く側も大変だった。まず遣唐使船というのが非常に危険だ。というイメージだけで書き進めそうになったが、そこは理系なので、生存率を確認しないではいられない。すると、実際のところはよくわからないらしい。この話は後日あらためて。まあ唐に渡るだけで一苦労だったはずだということに、いったんしておく。

また、初めから鑑真を招くと決まっていたわけではない。たいした情報もないまま唐に渡ったのだ。まず誰を招くのかから始めて、鑑真に会うまでに実に10年を費やしている。それから鑑真を口説いて、なんやかやで、鑑真来日にまで21年かかった。その間には奈良で大仏が建立されたりして、世の中ずいぶん変わってしまっていた。

さらに大変なのが、唐の国自体が、外国への出国を禁じていたことだ。玄奘も隠れて旅立った。鑑真も高僧だったため、変な動きをすると目立ってしまう。日本へ行こうとしていることがバレないように、という余計な苦労を強いられた。実際、弟子に密告されたりしている。

仮に旅立てたとしても、船が思うように進まない。出発地の揚州からまっすぐ西に向かえば九州のどこかへ着きそうなものだが、一度などは南へ流されて、なんと「中国のハワイ」海南島に流されたりしている。そこから陸路でまた桂林、広州を経て揚州に戻り、再起を図ったというからすごい執念だ。

天平の甍』は、その鑑真の「日本に戒律を、正式な仏教を伝えよう」というモチベーションを深掘りしているわけではない。鑑真は本心をあまり語らない師として描かれている。重きを置いているのは、迎えに行った側の日本人たちの人間模様だ。

中でも印象深いのは栄叡と普照の対比。初めから志が高く、鑑真を招くのに熱心だった栄叡は、海南島から揚州に戻る途中、広州で病死してしまう。一方、なかば成り行きで栄叡に引っ張られるかたちだった普照が、鑑真とともに渡日を果たしてしまった。しまった、て言い方はないか。

鑑真は唐招提寺を創建し、日本の僧侶らに戒を授け、ここに正式な僧侶がはじめて誕生した。日本仏教の正式な始まりだ。チベットでいえば、ナーランダ僧院から招かれたシーンタラクシタ(↓2001年タントゥク寺で撮影)がサムイェ寺で「試みの七人(または六人)」に戒律を授けたことに相当する歴史的な大事件だった。

f:id:ilovetibet:20200428181620j:plain

こうした鑑真の華々しい活躍をアシストした普照についての記録はあまりなく、没年さえわかっていない。『空旅中国』によると、海南島の三亜には、鑑真・栄叡・普照など5名の僧侶の像が立っている。また、広東省肇慶の慶雲寺には、その辺りで命を落とした栄叡が祀られているそうだ。

困るのは『天平の甍』で、情熱的な栄叡、淡白な普照といったキャラがすっかり(自分の中で)印象づけられてしまったことだ。鑑真についての記録は、没後に書かれた伝記『唐大和上東征伝』くらいしかないのだから、出来事や旅程はともかく、人物像なんてほとんど創作のはず。栄叡・普照以外のサブキャラも魅力的すぎる。司馬遼太郎同様、話が面白すぎて、史実がどうでもよくなってしまうという歴史小説の醍醐味をひさびさに実感することができた。次は『敦煌』あたりを読もうと思う。

天平の甍 (新潮文庫)

天平の甍 (新潮文庫)

  • 作者:靖, 井上
  • 発売日: 1964/03/20
  • メディア: 文庫
 

   

 

 

 

 

【本】『失われた旅を求めて』(蔵前仁一)/経堂の南インド料理屋スリマンガラムのミールズのテイクアウト

ひとことで言うと「昔の旅」の写真の本。どれくらい昔かというと、1980〜90年代だ。本書の帯にもあるように「バックパッカーが自由に旅できた時代」。もちろん今だって自由に旅はできる場所は多いのだが、国の発展や政情不安によって、バックパッカーから見れば、自由さが失われてしまったと思える場所もある。

失われた旅を求めて

失われた旅を求めて

  • 作者:蔵前 仁一
  • 発売日: 2020/04/15
  • メディア: 単行本
 

本書で「世界で最も変わってしまった場所」として、まず中国が登場するのは、本当にその通りだと思う。兌換券から人民元への闇両替、2泊3日硬座の列車旅、いかに中国人ぽく振舞って人民料金で切符を買ったり観光地に潜入するかの攻防などなど、バックパッカー的には挑戦ネタに困らない場所だった。あの自転車だらけの国が、今のように全国民が顔認証で管理される大国になってしまうとは誰も思わなかっただろう。

中国に続いて紹介されているのはクンジェラブ峠とチベットだ。クンジェラブ峠はパキスタンが側から越えたはずだがほぼ記憶がない。ものすごく小さなジープ状の車に押し込まれ、写真を撮る余裕すらなかった。いや国境の標識ぐらいは撮ったはずだが、その後、カシュガルで追い剥ぎにあいカメラとフィルム一式すべて盗られたので何も残っていないのだ。カシュガルからウルムチはバスで3日だったと思うが、こちらのほうが記憶にあるかな。

そしてチベット。ろくに公共交通機関もなく、県庁所在地なのにバスが3日に1本とか。それでも輸送トラックをヒッチして、けっこう色々な所にいくことができた。いちおう外国人が行ってよい場所は建前上限られていたはずだが、公安や解放軍など見張る側もたいてい大らかで、抜け道だらけで融通がききまくっていた。道路も交通機関も法律も整備された今と比べれば、不便だらけだったが、バックパッカー目線だけでいえば、とても自由だったのだ。

蔵前さんも本書で書いている通り、そうやって自由に旅できる日がずっと続くと、漠然と思っていた。というか、もっと自由になるとさえ勝手に期待していた。そして、裏切られた。まあ一方的な感傷なわけだが。

発展して便利になったというポジティブな(?)理由ではなく、戦争などによってアクセスできなくなったり、物理的に失われてしまった場所もある。そんなアジア・中東・アフリカの「失われた旅」を、いかにも昔っぽい味わいの写真とともにたどったのが本書だ。個人的にも蔵前さんから数年遅れで似たようなところに行っているので、どっぷり浸れる。

https://www.instagram.com/p/B_KRhvEppRK/

OSADA Yukiyasu on Instagram: “ポストに何か届いた音がしたので、ついにアベノマスクかと思って見に行ったら、蔵前仁一さん著『失われた旅を求めて』(旅行人)が到着! 旅行人の直販で買いました。速かった! もちろん #チベット も「世界で最も変わってしまった場所」として登場します☆”

本書では取り上げられていないが、個人的には香港。中国に返還された後もたいして変化はなかったが、まさか香港人自身のデモで行けなくなるとは思わなかった。あげくはコロナ禍で、もはや国内でさえ自由に移動できなくなったわけだ。

↓インスタに載せた写真から、1987年、香港の雑居ビル、チョンキンマンション(重慶大厦)のエレベーターにて。たしか16階まであって、安宿がたくさん入居していた。中国の長期ビザもここで取れた。商店やオフィス、ホテルはもちろん、工場まで入っていて、まさに雑居ビル。

https://www.instagram.com/p/B1L3JfvAq-M/

OSADA Yukiyasu on Instagram: “at Chungking Mansion, #Hongkong in 1987 summer on my way to #Tibet for the first time. #香港”

↓こちらは香港のマンゴースイーツ「許留山」(Huilaushan)にて。中国本土にも進出したが、コロナでどうなっただろうか。

https://www.instagram.com/p/Ba1U11og_xJ/

OSADA Yukiyasu on Instagram: “#now at another #Huilaushan 許留山, #TST, #Hongkong”

といった具合に懐かしんでいるわけだが、中にはたいして変わっていない場所もある。それがインド。蔵前さんも「変わった気がしない」と書いている。もちろん変わってないわけがないが、雰囲気というか、佇まいのようなものが変わりきっていないように感じるのだ。だから、これから行く人も間に合うと思う。それがインド時間。

↓こちらの写真はインスタには載せていないが、1986年、北インド、リシケシにて。チラム(マリファナ用のパイプ)をつくる職人だ。蔵前さんの『ゴーゴー・インド』にも「プク」として登場する。私は「クプ」と聞いた。「Kupu Baba」と名前を書いてくれたのだ。どっちでもいいけど。スイス・コテージというすごい名前の宿に泊まったら、隣に住んでいた。一緒に遊びに行こうと誘われて訪れたのが、チベット難民が住む町、ムスーリー。そこで初めてチベット人に出会ったのだった。クプの狙いは、肉と酒。リシケシは聖地なので、どちらも禁じられているからだ。

f:id:ilovetibet:20200424034804j:plain

↓これもインスタに載せていないが、1992年の、、マドラスかな。南インド。あ、今はチェンナイっていうんですね。チェンナイには今年の春、行くかも、という予定だったが、それどころではなくなってしまった。

f:id:ilovetibet:20200424034948j:plain

ちょうど今日、南インド料理屋のミールズ(定食)をテイクアウトしたら、カレーもライスもとてつもない量。もともと、おかわり自由なので、その分も入れてくれているのだろう。食い過ぎて眠れなくなって、これを書いている次第。↓インスタより。

https://www.instagram.com/p/B_Ul44vJdFd/

OSADA Yukiyasu’s Instagram post: “#経堂 #スリマンガラム のテイクアウトのミールズ、1つ一つ袋に入ってる☆ #StayHome #MealsReady”

では本日はこのへんでー☆

 

失われた旅を求めて

失われた旅を求めて

  • 作者:蔵前 仁一
  • 発売日: 2020/04/15
  • メディア: 単行本
 

 

 

【本】『三蔵法師の歩いた道』(長澤和俊)/慈恩寺の玄奘塔(埼玉県岩槻)

ひきつづき玄奘関連の本。前回ご紹介した『玄奘三蔵 西域・インド紀行』の訳者による『三蔵法師の歩いた道 巡歴の地図をたどる旅』が到着した。玄奘の求法の旅の足跡を著者自身がたどるという内容。

著者の旅はシルクロードやインドの仏跡はもちろん、カザフスタンキルギスウズベキスタンアフガニスタンにまで及ぶ。玄奘の生涯を時系列で紹介しながら、その場所が今どうなっているのか、実際に訪れて記してくれている。玄奘の生涯や人となりも含めて、この1冊でだいたい、しかも正しく知ることができる。

玄奘が旅したルートはもともと色々な民族・宗教が混在している上、中国・ロシア・インドといった大国の国境が入り組んでいるエリアが多く、現在の旅行事情も複雑だ。入域や国境越えが叶わなくなっている場所も多い。

玄奘の時代にはパスポートとかIDといった面倒なものはなかった代わりに、山越え、砂漠越え、山賊といった危険がつきものだった。とはいえ行く先々で厚遇されることも多く、仏教を重用するインド諸国の王様たちに「ぜひもっと滞在して」と引きとめられて、なかなか離してもらえなかった、なんて微笑ましい(?)逸話も。そんなこんなで旅は17年に及ぶこととなった。

ナーランダで学ぶという目的を果たし、無事長安に帰った後の生涯も、本書は最後まで網羅している。そこで思い出したのが、埼玉県岩槻氏にある慈恩寺だ。すっかり忘れていたのだが、2015年に行ったことがある。拙著『ぶらり東京・仏寺めぐりり』(幻冬舎)のために原稿も書いた気がするけど最終的にはボツ。東京じゃないし。。

f:id:ilovetibet:20200421204555j:plain

f:id:ilovetibet:20200421214123j:plain

慈恩寺の立派な玄奘塔。慈恩寺とは少し離れた場所にそびえ立っている。ただ名前がついているだけではなく、なんと玄奘の遺骨が祀られているのだ。もともと長安にあったはずのものが行方不明になり、日中戦争中に日本軍が南京で再発見。中国側に返還したという縁があり、一部が日本に贈られたのだ。さらに奈良の薬師寺にも分骨され、玄奘三蔵院に祀られている。

というわけで、玄奘シリーズはいったん終了!

 

【本】『玄奘三蔵 西域・インド紀行』(慧立・彦悰)

前回に引き続き玄奘関係。『大唐西域記』は玄奘自身が皇帝・太宗のために記した地誌、報告書だった。

tibet.hatenablog.jp

一方、玄奘旅行記そして伝記として、さらに詳しいとされているのが、弟子によって編纂された『大慈恩寺三蔵法師伝』だ。その前半を和訳したのが『玄奘三蔵 西域・インド紀行』だ。本書は前半のみだが、訳者はもともと全訳を刊行したことがある。さらに玄奘の行程を(一部を除いて)ほぼ踏査したとのこと。さすが。

玄奘三蔵 (講談社学術文庫)

玄奘三蔵 (講談社学術文庫)

 

さて、その行程のことで『大唐西域記』の中でも気になっていたのが、玄奘は書いてある場所すべてに行ったわけではないということ。もともと『大唐西域記』では、伝え聞いた「伝聞国」を「至●●」と記し、「親践国」(実際に行ったという意味らしい)を「行●●」と記して区別したそうだ。しかし、『大慈恩寺三蔵法師伝』ではどちらも実際に行ったかのように書かれてしまっている。この書き分けによると、玄奘はウディヤーナに実際には行っていない、もしくは、帰路に行ったということらしい。

あと、南インド玄奘はナーランダ僧院で5年ほど学んだ後、今のチェンナイ(マドラス)付近まで南下し、そのあとデカン高原の南を回ってはるばる西インドにまで赴いた後に、ナーランダに戻ったことになっている。今では跡形もないであろうが、当時まだあちこちに仏教寺院があり、行く先々で学んでいたようだ。が、これもどこまで本当なのかよくわからない。

そもそも、唐を発った年や、ガンダーラカシミールを経てナーランダに到着した年さえ、実は確定していないのだという。伝記が数種類あり、少しずつ内容が異なるからだ。といっても釈迦の生年のように何百年もの幅で異説があるわけではなく、数年の差なのだが。

玄奘の求法のルートについては、こちら(↓Wedge Infinity 2011年8月23日)の記事の中の地図が好き。なぜなら日本列島が丸ごと載っているからだ。普通、日本でいえばどれくらいの距離なのか知りたいでしょ。こういう広範囲の地図が意外にない。ほとんどの地図は長安から西だけだ。この地図は実際に行ったルートと、行ったかどうか疑問のあるルートの区別もわかりやすい。

wedge.ismedia.jp

https://wedge.ismedia.jp/mwimgs/d/e/-/img_defaea2af977829e7caadfe5a0ab09b0595226.jpg

↑Wedge Infinity 2011年8月23日)より

玄奘の17年にわたる旅のスケールがよくわかる。とともに、このルート、何かを避けているように見えないだろうか? そう、避けられているのは、真ん中の白っぽい色の部分、つまりチベット高原だ。玄奘長安にいた頃から、ナーランダで『瑜伽師地論』を学ぶことを目的に定めていたようだ。だとすると、チベットを突っ切れば(距離的には)ずっと近そうに見える。

玄奘がインドにいた頃、唐からチベット文成公主が嫁入りした。唐とチベットを結ぶ「唐蕃古道」はすでに通商ルートとして機能していただろう。あるいは雲南からインドシナ経由という選択肢はなかったのだろうか。と、当時の情勢を何も知らずに適当なことを書いているが、戦争やヒマラヤや密林で、実用的ではなかったのだろう。かつて法顕も通ったおなじみのシルクロードルートのほうがずっと安全だったはずだ。ソグド人らの仏教ネットワークもあったようだし。

玄奘の旅については、ナーランダに着くまでに、数カ月単位であちこちに寄り道(?)をしているのも面白い。雪どけ待ちといった実用的な理由だけでなく、めったにお目にかかれないマハーチーナ(大支那)の僧侶ということで、国王に求められて滞在したり、講義をしたり、学んだり、けっこう人気者なのだ。こうした諸々の滞在期間を足していくと計算が合わないといったことも起こっている。

というわけで、興味の尽きない玄奘の旅程。これについて、もう1冊読み終わっているはずが、Amazonからの配送が遅延しており叶わないでいる。読めるのは明日になりそうだ。アベノマスクとどちらが先に届くか?

 

 

【本】『ガンダーラ 仏の不思議』(宮治昭)/『大唐西域記』とかウディヤーナのこととか

、全国民にマスク配布へ」とか「空母」とか、フランス関係のニュースの見出しを目にするたびに「ホトケが?」と微妙な気持ちになりますよね。なりませんか。そうですか。

さてNHKオンデマンドで昔のNHKスペシャル「文明の道」シリーズを見ていたら、ガンダーラの話が出てきた。釈迦の像が歴史上はじめてつくられたとされる地(のひとつ)で、現在のパキスタンペシャワールのあたりだ。と言われれば思い出すのだが、自分の中で、いまひとつ時間・空間の位置付けがあやふやだったので、復習してみることにした。そこでこれ。

正直どれを読んでいいのかわからなかったので、美術に偏りすぎず、ガンダーラ周辺のことをひととおり俯瞰できそうなのを買ってみたうちの1冊だ。アレクサンドリア大王の遠征があって、その後、バクトリアギリシア人が入ってきて、いろいろあった末、クシャーン朝のときに、ガンダーラが中心地になった。これが紀元1〜3世紀。そして、クシャーン朝のカニシカ王のころ、ギリシア風の仏像がつくられるようになった。釈迦本人が活躍したガンジス川沿いからは遠く離れた地で、しかも500年以上たった後で、釈迦の像がようやくつくられたのだ。大乗仏教への展開もガンダーラと深い関係があるようだ。といった一連の流れがスッキリ整理できた。

しかし、チベットの地名なら行ったことがなくても詳細に覚えているのに、あのへんの地名というのは、どうしてすぐ忘れてしまうのだろうか。もう30年前になるが、ペシャワールカラコルムハイウェイには行ったことがあるのに、だ。もっとも当時はたいして興味も知識もなかったので、パキスタンが仏教ゆかりの地というイメージがなく、インドからイスラム圏に入ったなあぐらいの認識しかなかった。有名な博物館等も完全にスルーしていた。大変後悔している。

さて、ガンダーラといえば、ある世代の日本人の頭の中では、テレビドラマ「西遊記」つながりで、(香取慎吾ではなく堺正章の)孫悟空夏目雅子ゴダイゴモンキーマジックといった言葉と一緒の引き出しに入っているのではないだろうか。番組の主題歌に「どこかにあるユートピア」「愛の国ガンダーラ」とかふんわりした歌詞がついていたので、本当にあった場所と思っていない人も多そうだ。「They say it was in india」という歌詞もあったので、古代インドの伝説だろう、とか。

もちろんガンダーラは実在した。実際、西遊記のモデルとなった玄奘三蔵法師)はそこを訪問している。ときに7世紀。ソンツェン・ガンポ王がチベットを統一し、唐の長安から文成公主をめとろうか、といった時代だ。玄奘が初めて訪れたわけではなく、5世紀に法顕、6世紀に宋雲という中国僧もガンダーラに入った。記録を残しているから名前が知られているだけで、他にも大勢いたのだろう。

玄奘の記した『大唐西域記』は幸い日本語で読むことができる。中央アジア西アジアの地名が全部漢字なので、とても違和感があるが、平凡社・中国古典文学大系の『大唐西域記』には詳細な解説がついているので、なんとかなる。ちなみにガンダーラは「健馱邏国」と記されている。玄奘が訪れた時には、仏教国としてのガンダーラはとおに最盛期を過ぎていた。仏教徒もおらず、かつて千以上あったとされる僧伽藍はすっかり朽ち果てていたそうである。

f:id:ilovetibet:20200419034234j:plain

こうしてガンダーラ諸行無常・盛者必衰をかみしめた後、古本独特の刺激臭で鼻水・涙が止まらなくなりながらも読み進めていくと、次の項に「烏仗那国」というのが出てきた。ウディヤーナである。おわかりの方には、おわかりかと思う。そう、チベット密教を伝えたグル・リンポチェ(パドマサンバヴァ、↓の写真のお方)が生まれたとされる地だ(異説あり)。

ウディヤーナもガンダーラ同様「どこかにあるユートピア」感満載の場所だ。シャンバラ伝説と一緒くたになっている気もする。しかし、ウディヤーナはガンダーラ(今のペシャワール)の北側、今のスワート渓谷に実在した。ここもかつてガンダーラ地方の一部で、仏教遺跡がたくさん発見されている。玄奘の前に法顕も訪れている。

大唐西域記』によると、かつて1,400の伽藍があり、僧は18,000人いた。ただ玄奘が訪れたときには、ここもすでに荒廃していたという。「人の性質は臆病で人柄は嘘偽りが多い」そうである。何があったのだろうか。

f:id:ilovetibet:20200419130551j:plain

グル・リンポチェは8世紀後半の人のはずなので(とりあえずそういうことにしておくと)、法顕や玄奘とはまったく時代が違う。敦煌で著書が発見された新羅僧・慧超も訪れているが、8世紀初めなので、残念ながら早すぎる。ウディヤーナ方面でグル・リンポチェに会ったとか、噂を聞いたとかいう誰かの記録があればいいのに。

大唐西域記』は玄奘自ら記した見聞録であった。次に、弟子がまとめた伝記を読んでみることにする。

 

ゴダイゴ・グレイト・ベスト1 ~日本語バージョン~

ゴダイゴ・グレイト・ベスト1 ~日本語バージョン~

  • アーティスト:ゴダイゴ
  • 発売日: 1994/05/21
  • メディア: CD
 

 

【NETFLIX】「アジアに棲む危険生物72種」に「ヤク」が登場!

チベットの動物といえば、もちろんヤク!
こちらは2001年、西チベットにて。

f:id:ilovetibet:20200417011252j:plain

あまり危険という印象を持ったことがないが、NETFLIXオリジナル「アジアに棲む危険生物72種」に晴れてノミネートされている。タイトル通り、アジアの危険な生物72種を、なんと12回にもわたって紹介してくれるこの番組、内容は真面目なものの、ナレーションや吹き替えに相当クセがあるので、がんばって慣れてほしい。

ヤクが登場するのはシーズン1のエピソード10「大胆に、そして冷酷に」の回。

「危険生物として有名なラッセルクサリヘビ、モンガラカワハギ、マカク、ヤク、ヒョウモンダコ。戦いは互角だが、ラーテルも負けず劣らず危険度が高い。」

これがエピソード10の解説なのだが、ヤク以外、名前を聞いても絵が浮かばない。もちろんヘビやタコと実際に戦うわけでなく、どういう基準かよくわからないがランク付けされて、最終回で最強危険生物が発表される。それが何かはネタバレになるので書かないが、もちろんヤクはトップ10にも入っていない。

危険なヤクといえば野生のヤク(ドン)のことかと思いきや、この番組の中では、家畜のほうがむしろ危険と紹介されている。野生のヤクは人を避けるが、家畜は突然豹変して人を襲うからだ。たしかに角のある1トンの巨体が40kmで突進してくるのだから怖い。ずんぐりむっくりしているので騙されるが、実際、意外に俊敏なのだ。というか臆病なのかな。急に向きを変えて走り出したりする。

番組では大昔のモノクロフィルムから今のものまで、いろいろな勇ましいヤクの映像が紹介される。それだけ見ていると、なるほど、どう猛と言えないことはないかな。まあたまには機嫌の悪い時もあるよね。

解説要員として登場するNational Zoo and Aquariumのテンジン・プンツォク氏は(名前からしてたぶん)チベット人。オーストラリアの国立動物園のようだ。もう1人登場するのが、米モンタナ州で30年ヤクを育てているというローレンス・リチャード氏。いろんな人がいるものだ。

そして最後は…

f:id:ilovetibet:20200417013640j:plain

地球温暖化問題に落とし込まれて、なにやら悲しげなエンディングに…。このあと「そして遊牧民も同様です」と続いてさらに悲しくなったが、最後の最後で、ヤク飼育歴30年おじさんの「“ウシ界のベンツ”と私は呼んでいる」の言葉にほっこりさせてもらった☆

ので気になって調べてみた。モンタナ州のヤク牧場はこちら↓ Google Mapで上から見ると、なんだかヤクが点々と見える気がする!

www.yakzz.com