「仏、全国民にマスク配布へ」とか「仏空母」とか、フランス関係のニュースの見出しを目にするたびに「ホトケが?」と微妙な気持ちになりますよね。なりませんか。そうですか。
さてNHKオンデマンドで昔のNHKスペシャル「文明の道」シリーズを見ていたら、ガンダーラの話が出てきた。釈迦の像が歴史上はじめてつくられたとされる地(のひとつ)で、現在のパキスタンのペシャワールのあたりだ。と言われれば思い出すのだが、自分の中で、いまひとつ時間・空間の位置付けがあやふやだったので、復習してみることにした。そこでこれ。
正直どれを読んでいいのかわからなかったので、美術に偏りすぎず、ガンダーラ周辺のことをひととおり俯瞰できそうなのを買ってみたうちの1冊だ。アレクサンドリア大王の遠征があって、その後、バクトリアのギリシア人が入ってきて、いろいろあった末、クシャーン朝のときに、ガンダーラが中心地になった。これが紀元1〜3世紀。そして、クシャーン朝のカニシカ王のころ、ギリシア風の仏像がつくられるようになった。釈迦本人が活躍したガンジス川沿いからは遠く離れた地で、しかも500年以上たった後で、釈迦の像がようやくつくられたのだ。大乗仏教への展開もガンダーラと深い関係があるようだ。といった一連の流れがスッキリ整理できた。
しかし、チベットの地名なら行ったことがなくても詳細に覚えているのに、あのへんの地名というのは、どうしてすぐ忘れてしまうのだろうか。もう30年前になるが、ペシャワールとカラコルムハイウェイには行ったことがあるのに、だ。もっとも当時はたいして興味も知識もなかったので、パキスタンが仏教ゆかりの地というイメージがなく、インドからイスラム圏に入ったなあぐらいの認識しかなかった。有名な博物館等も完全にスルーしていた。大変後悔している。
さて、ガンダーラといえば、ある世代の日本人の頭の中では、テレビドラマ「西遊記」つながりで、(香取慎吾ではなく堺正章の)孫悟空、夏目雅子、ゴダイゴ、モンキーマジックといった言葉と一緒の引き出しに入っているのではないだろうか。番組の主題歌に「どこかにあるユートピア」「愛の国ガンダーラ」とかふんわりした歌詞がついていたので、本当にあった場所と思っていない人も多そうだ。「They say it was in india」という歌詞もあったので、古代インドの伝説だろう、とか。
もちろんガンダーラは実在した。実際、西遊記のモデルとなった玄奘(三蔵法師)はそこを訪問している。ときに7世紀。ソンツェン・ガンポ王がチベットを統一し、唐の長安から文成公主をめとろうか、といった時代だ。玄奘が初めて訪れたわけではなく、5世紀に法顕、6世紀に宋雲という中国僧もガンダーラに入った。記録を残しているから名前が知られているだけで、他にも大勢いたのだろう。
玄奘の記した『大唐西域記』は幸い日本語で読むことができる。中央アジアや西アジアの地名が全部漢字なので、とても違和感があるが、平凡社・中国古典文学大系の『大唐西域記』には詳細な解説がついているので、なんとかなる。ちなみにガンダーラは「健馱邏国」と記されている。玄奘が訪れた時には、仏教国としてのガンダーラはとおに最盛期を過ぎていた。仏教徒もおらず、かつて千以上あったとされる僧伽藍はすっかり朽ち果てていたそうである。
こうしてガンダーラの諸行無常・盛者必衰をかみしめた後、古本独特の刺激臭で鼻水・涙が止まらなくなりながらも読み進めていくと、次の項に「烏仗那国」というのが出てきた。ウディヤーナである。おわかりの方には、おわかりかと思う。そう、チベットに密教を伝えたグル・リンポチェ(パドマサンバヴァ、↓の写真のお方)が生まれたとされる地だ(異説あり)。
ウディヤーナもガンダーラ同様「どこかにあるユートピア」感満載の場所だ。シャンバラ伝説と一緒くたになっている気もする。しかし、ウディヤーナはガンダーラ(今のペシャワール)の北側、今のスワート渓谷に実在した。ここもかつてガンダーラ地方の一部で、仏教遺跡がたくさん発見されている。玄奘の前に法顕も訪れている。
『大唐西域記』によると、かつて1,400の伽藍があり、僧は18,000人いた。ただ玄奘が訪れたときには、ここもすでに荒廃していたという。「人の性質は臆病で人柄は嘘偽りが多い」そうである。何があったのだろうか。
グル・リンポチェは8世紀後半の人のはずなので(とりあえずそういうことにしておくと)、法顕や玄奘とはまったく時代が違う。敦煌で著書が発見された新羅僧・慧超も訪れているが、8世紀初めなので、残念ながら早すぎる。ウディヤーナ方面でグル・リンポチェに会ったとか、噂を聞いたとかいう誰かの記録があればいいのに。
『大唐西域記』は玄奘自ら記した見聞録であった。次に、弟子がまとめた伝記を読んでみることにする。