チベット式

チベットの今、そして深層 by 長田幸康(www.tibet.to)

【チベット紀行】1992年と2018年のロンウォ寺(アムド・レゴン)

インスタにアップした写真に解説つけようのコーナー、ひきつづき。場所はアムド地方レゴン(レプコン)のロンウォ寺。漢語では同仁の隆務寺。青海省西寧から南へ200kmくらいだ。1992年当時はバスで5時間くらいかかったと思う。標高2,500mくらいしかない低地で、周りは豊かな農村。周辺の町・村にも寺がある。レゴン地域はアムド文化の中心地のひとつで、とくにタンカ(仏画)の絵師が多いことで知られている。  

https://www.instagram.com/p/B1iCkTJgLoI/

At Rongwo Monastery, Amdo Rebgong, Eastern #Tibet in 1992

こちらは1992年のロンウォ寺の集会堂(だと思う)。当時ほとんどのチベットの僧院で高僧が不在になってしまっていた中、この寺にはトゥルク(転生した高僧)が複数いた。1992年に目にした高僧はまだ子どもだったので、転生者として認められたばかりだったのだろう。というわけでロンウォ寺は当時から、復興中ながらも活気に満ちていた。

1992年に僧坊に招いてくれた僧侶と、しばらく手紙のやりとりをしていた。急に手紙が途絶えたので、どうしたのかと思っていたら「洞窟にこもって修行をしていた」みたいな手紙が急に届いたりして。寺の裏山にそういう洞窟があるという。きちんとした修行のできる環境が整っているようで安心した。それにしても今ならWeChatで一瞬で終わるやりとりに、ずいぶん時間がかかっていたものだ。

そのロンウォ寺に昨年、26年ぶりの再訪がかなった。が、西寧から日帰りだった上、夕立に襲われかけて、慌ただしい感じだったので、件の僧侶のその後は確認しそびれた。また次回かな。

ロンウォ寺の2018年夏の様子はこんな感じ。雲行きがあやしい。

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https://www.instagram.com/p/Bm5M_GAB7M2/

At Rongwo Monastery, Amdo Rebgong, Eastern #Tibet on August 2018

お供え物をつくってるとこ。こういう姿は27年前と変わらない。スマホ持ってるんだろうけど。

大きく変わったのは、このお堂のあたりかな。チャムカン(弥勒殿)。

https://www.instagram.com/p/BnLNVW_B7PA/

Maitreya Buddha of Rongwo Monastery, Amdo Rebgong, Eastern #Tibet, August 2018

こんなキンキラキンの弥勒仏は、当時なかったと思う。

一方、通りかかった僧坊の門が開いていたので、犬に警戒しながら、のぞいてみたら…

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古びていて、いい感じ。前述の僧侶もこういう木造の僧坊に住んでいた。普通は中庭に色とりどりの花とか盛大に植えたりして綺麗にしちゃうものだが、こちらはずいぶん質素だ。侘び寂び的な美意識をもった僧侶なのかもしれない。

ロンウォ寺は西寧から微妙に離れているせいか、クンブム(いわゆるタール寺)ほど極端な観光地化は進んでいない様子。ちょっとホッとして隣の街の寺に向かった。 

【チベット紀行】ていうか【香港】1987年チベットに行く途中とか。

インスタにアップした写真に解説つけようのコーナー番外編。香港スイーツといえば許留山(Hui Lau Shan)だ。糖朝は日本に進出してるけど、許留山は未上陸らしい。こちらは2017年、現地からアップした写真。

https://www.instagram.com/p/Ba0qKZ5ggIE/

#now at #Huilaushan, Sheungwan, #Hongkong

https://www.instagram.com/p/Ba1U11og_xJ/

#now at another #Huilaushan 許留山, #TST, #Hongkong

つねに監視されてる感のあるチベット方面から香港に下りてくると、英語と資本主義と自由満載の世界は本当に楽園のように思える。その開放感はカトマンズと双璧をなす。

その香港がまさかこんなことになろうとは。

思いもよらなかった、といえば嘘になる。1997年に英国から返還されたとき、いちおう「五十年不変」という約束?はあったようだが、どうせそんなもん守られるはずがない、遅かれ早かれチベットウイグルと同じことになる、と誰もが思っただろう。「六四屠殺」(天安門事件)をやらかしてまだ10年もたっていなかったのだ。

初めて香港に行ったのは1987年。前回の記事に書いたチベット行きの出発地だった。空港から市バスでチムサーチョイまで行き、おなじみの雑居ビル、チョンキンマンションに泊まり、陸路で広州に入るという、絵に描いたようなバックパッカールート。それが本日インスタにアップした写真。古いネガをスキャンしたので、いかにも昔な感じ。

https://www.instagram.com/p/B1L3JfvAq-M/

at Chungking Mansion, #Hongkong in 1987 summer on my way to #Tibet for the first time. #香港

すでにインドやネパールに行っていたので、そこまでカオスには感じなかったが、香港の中ではここだけ匂いが違う感はあったかも。

香港には1989年にも2回ほど、いや、3回かな、立ち寄っている。なぜかというと、1989年の3月、ラサに戒厳令が布告されてしまい、チベット行けねーじゃんと右往左往していたからだ。87年夏にチベットから帰ってきた途端、その秋に大きな抗議行動が始まってしまい、だんだん盛り上がって、とりかえしのつかないことになってしまった。

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結局、チベットではなくインドに行き、5月から9月くらいまでダラムサラにいた間に、さらに天安門事件が起こってしまった。ダラムサラではテレビとは縁遠い生活だったが、みんなが騒いでいたので、レストランか何かで見たんだと思う。けど断片的で、あの映像をちゃんと見たのは、ずっと後のことだ。

ダラムサラの後はカシミールからパキスタンに入り、カラコルムハイウェー経由でウイグルに行き、カシュガルで追い剥ぎにあった後、またはるばる香港に出てきて、ラッキーゲストハウスの上海街じゃなくてHumphreys Avenueのほう、「ラッキー1」だったかな? そこのドミにしばらくいる間に、ベルリンの壁が崩壊。ラッキー1は欧米人が多かったので、ちょっと盛り上がっていた。

ラッキー1にいる間、日本語を教えるバイトとか、映画のエキストラとか、色々やってたけど覚えてるのはチョウ・ユンファの『ゴッド・ギャンブラー』(賭神)の夜間撮影に本人が来てたことぐらいかな。何の話だ。

あれからちょうど30年…。

ここはひとつ、いろんな人にがんばってほしいという祈りを込めて、2017年の文武廟を最後に。

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【チベット紀行】1987年のラサの空港の近く(懐)

インスタにアップした写真に解説をつけていこうのコーナー、引き続き。今回はこちら。

https://www.instagram.com/p/BMsh5lsgCt3/

#Tibetan kids in Gongkar village near #Lhasa airport in 1987 (my firstvisit to Lhasa)

なんと30年以上前…。場所はラサの空港のあるコンカル。とてもここに空港があるように見えない、のどかな村だったんだけど、今は立派な街になっている。当時の滑走路はこんな感じ。

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1987年は、ラサに初めて行った年。この春に、ネパール側から国境近くのダムとニャナンだけ行ったのに続き、本格的に本土デビューとなった。香港から陸路で広州に入り、鉄道で蘭州、西寧を経て、バスでゴルムドからラサへ、という一般的なルート。とくにチベットに行こうと思っていたわけではなく、一緒にいた香港人グループについて行ったらそうなったというだけだった。

ラサはまあ一通り見て、宿はキレーのドミだった。ラサで過ごしたのは1週間ぐらいかな。で、帰りは空路で成都に下りようと思っていたら、問題発生。

当時、ラサから成都への朝の便に乗るには、前日の夕方、ラサの街からコンカルに行き、空港ホテルで1泊する必要があった。ラサの街とコンカルを結ぶ、わずか100kmの道が超悪く、雨でも降ろうものなら、何時間もかかったからだ。今は30分くらい?

で、何が問題かというと、天候が悪くて飛行機が飛ばなかったのだ。そもそも成都から飛んでこないと機材がないし、いったん飛んできたら最後、なかなか脱出できないという罠。前日か、もっと前の日から欠航が続いており、飛べない人がどんどんたまっていた。私がコンカルに着いた後も3〜4日飛ばず、ひたすら空港の質素なホテルに泊まって、のどかなコンカル周辺で過ごすはめになった。こんな感じ。

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暇だからといって、ラサの街に帰るわけにはいかない。道路事情が悪いと、往復するだけで丸1日かかる。急に気が変わって飛ぶとかいうかもしれないし、いざチェックインとなれば、全然並ばない中国人が殺到するカウンターで早い者勝ちの戦いが待っている。時々カウンターやオフィスに行って様子を伺いながら、ずっと待っているしかなかった。

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上の黒板は、無人になった昼間の空港カウンターに掲げられた「今日は終日無飛行」の告知。何日も待っている欧米人たちが日替わりで落書きしていた。ホテルは4人部屋で、陽気なスペイン人グループと一緒だったかな、たしか。

そんな暇で暇でしかたない中、近所をうろうろしているときに出会ったのが、近所の農家の子どもたち。下のような写真が残っているので、最初は川の対岸にいたのかな。たぶん外国人たちにお菓子をもらいに来たんだと思う。

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コンカルに行ったのは、2007年が最後だが、その時点ですでに開発が相当進んでいて、この場所がどこなのか特定が難しくなっていた。この子たちが幸せになっているといいなと思う。まるごと立ち退きになっていなければ、探せば1人ぐらいは見つかるんじゃないかな。

今回の写真はすべて、ネガフィルムを専門の業者さんに依頼してスキャンしたもの。ちょっと色が黄身がかってますね、修正してません、すみません。カメラはたしかCanonのAV-1というのを借りて持っていった記憶が。ちゃんとフィルムが装填されてなくて、デプン寺で撮ったはずの1本まるごと失敗、というのも、今となってはフィルムカメラ時代の懐かしい思い出…。

 

【チベット紀行】1992年と2018年のマトゥ(アムド)

インスタにアップした写真に解説をつけていこうのコーナーその3。まずはこちらの1992年の写真。

https://www.instagram.com/p/BJnL5YugoKh/

#Tibet #1992 autumn in #Amdo #Matoe (Ch: #Qhinghai #Maduo xian )

場所はアムド地方のマトゥ。青海省の西寧から、前回紹介したジェクンドに向かう途中にある小さな街だ。標高は4,300mくらいなので、いきなり行くと、ちょっときつい。マトゥというのはマチュ(黄河)の上流のほうという意味。さらに奥に入ると、黄河源流域へと至る。

アムド地方と書いたが、たぶん伝統的にはアムドに入れてもらえてなくて、かといってカムでは絶対にないゴロク地方だ。アムドの中心からもカムの中心からも遠い、チベット屈指のフロンティア、単刀直入に言えば田舎だ。チベット色の濃さは嬉しいのだが、男たちの帯刀率が非常に高くて怖い(ソースは昔の個人的経験のみ)。

1992年当時は、西寧からのバスで2日目に到着。幹線道路沿いに人工的に作ったような街で、いい具合に閑散としていて寂しかった。9月だったが、すでに吹雪。晴れたらチベタンブルーの濃い青空が広がって、周りに何もないだけに気持ちがいい。

街のはずれに発見したのが、タルチョで彩られた小さなお堂だ。中にはマニ車が1つ。あ、そういえば、大昔に書いたページがあったので、当時の話はこちらをご覧いただいたほうが早そうだ。

チベット紀行:おばあちゃんたちのマニ車

 

周りはこんな感じ。 

https://www.instagram.com/p/BkraPR0B-fs/

at Amdo Matoe, Eastern #Tibet, 1992 autumn

 

夕方の日課なんだろうな、お堂にマニ車を回しに来ていたおばあちゃんたち。

https://www.instagram.com/p/BKdYsmPgkIt/

#Tibet in 1992 #Amdo Matoe (ch: Maduo xian, Qinghai)

ここで何があったかは、再掲、こちらをどうぞ。

チベット紀行:おばあちゃんたちのマニ車

近くにあった自宅にお邪魔したときの写真も、近々インスタにあげようと思う。当時はポジフィルムなので、フィルムスキャナを引っ張り出してきてスキャンするのが大変なんです、すみません。

さて、あれから26年。2018年、マトゥ再訪が叶った。ジェクンドほどの変貌ではないにせよ、街は小ぎれいに整備されてしまい、記憶の中の地図とは照合不可能だ。そして、なんだかスゴい空間が造成されていた。正確な名前は調べてないが、ケサル大王にちなんだテーマパークだ。現地からアップした写真がコレ。

https://www.instagram.com/p/BmUfm-4Byqz/

#now at Gesar Square, Golok Matoe, Eastern #Tibet

誰かの寄進なのか公共事業なのは未確認だが、土地だけはたっぷりあるので、とにかくでかい像やらオブジェやらがケサル大王の物語を繰り広げてくれている。ケサルの偉大さを讃えるには、これくらいのスケールが必要なのだという圧倒的な気迫は受け止めた。了解。他の写真もいずれアップしようと思う。

黄河の源流に近いオリン湖・ザリン湖に行く予定だったが、なんとこの年、生態系保護のため旅行者は入域できなくなったという。本当に保護してくれていることを祈りたい(誰も信じてない)。

【イベント】9/22「蔵前仁一が、長田幸康が、川田進が、語る! 旅行人・チベット・ラルンガル」

今年4月、大阪工大の川田進先生が『天空の聖域ラルンガル ――東チベット宗教都市への旅(フィールドワーク)』(集広舎)を出版されました。

tibet.hatenablog.jp

これにともなって大阪ではすでに報告会が開催されましたが、いよいよ東京でも! そして、なんと「旅行人」の蔵前仁一さんが「旅行人」のあれこれを語ってくれます。「遊星通信」0号から「旅行人」最後までコンプリートしている読者としては、たまらないですね。と、人ごとのように書いてますが、私もラルンガルについて昔話を語ることになっています。このネタ限定で時間をかけて話すことなんて、もちろん初めてだし、たぶん最後でしょうね。なんて考えるとドキドキするので、直前まで忘れることにします。

イベントの概要は…

公開講座「旅行人・チベット・ラルンガル」募集75人、無料
1.蔵前仁一:「旅行人ノート」の誕生と蔵前流旅行術
2.長田幸康:「旅行人ノート チベット」の執筆とラルンガル訪問
3.川田進:天空の聖域ラルン五明仏学院はどこへ行く

【日時】2019年9月22日 13:30~16:30
 13:00開場、13:30講演開始、16:30終了予定
【場所】東京堂ホール(千代田区神田神保町1-17) 

詳細は↓をご覧ください。

www.facebook.com

そもそも、富永省三さんのスーパーマップから生まれた『旅行人ノート チベット』があったからこそ、ラルンガルという場所を伝えることができました。まあ何でもかんでも公表すればいいというものではありませんし、当時は現地で違法行為(外国人が行ってはいけないところへ行ったり宿泊したりすること)ばかりしてたわけで、今だとコンプライアンスとか自己責任とかで炎上したりするのかもしれませんね。炎上以前に、ネットがほぼない時代だったので、とにかく行ってみるしかありませんでした。といった時代のお話をすることになるでしょう。正直、記憶があいまいになっていることもあるので、ちゃんと思い出しておかないと。

では、まだちょっと先の話になりますが、よろしくお願いいたします!

 

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【チベット紀行】1992年と2018年のジェクンド(カム)

インスタにアップした写真にちょっとした解説をつけていこうのコーナー、その2。まずは1992年のこちらの写真。

https://www.instagram.com/p/Bk9qoIVhzLa/

Jyegu Monastery under reconstruction, Kham Jyegudo, Eastern #Tibet, 1992 autumn

街の名前はカム地方ジェクンド。漢語では玉樹。ジェクンドという呼び名は、実はカム訛りであり、ラサ方面の読み方ではキグドになる(はずだが、実際にそう呼ばれるのは稀だと思う)。無理やり青海省に入れられているため、アムド地方かと思われがちで紛らわしいが、チャムドやデルゲにほど近く、まぎれもなくカム地方の中心都市の1つだ。伝統的にはザ・ジェクンドと呼ばれる。The ではない。ザチュ(メコン川)上流域にあるからだ。

青海省とはいえ、省都・西寧からは軽く900kmは離れているため、チベット人率は今でも非常に高くて、いい感じだ。1992年当時はバスで3日かかったと思う。寝台バスはなかったため、昼間だけ走り、途中どこかで2泊していた。が、その後、道がよくなり、今では高速道路のような道もできて(ドライブインはまだ建設中)、頑張れば1日で到達できるようになった。それでも途中、5000m以上の峠を越えるため、近いとは言い難い。そうこうしているうちに玉樹空港ができてしまい、仕事で行き来するチベット人たちは空路を使うことも多いそうだ。

上の写真はジェクンドの街を見下ろす丘の上に建つ大僧院ジェグ・ゴンパ。1992年当時は、かつて破壊された建物を絶賛復興中であった。丘の上の方は朽ち果てた建物が放置されたまま。他の僧院同様、トップはインドに亡命して難を逃れ、教えが保たれたのは不幸中の幸いだった。そんなジェグ・ゴンパのそびえる丘のふもとに、小さな祈りの場があった。

https://www.instagram.com/p/BlPMKLnhtTH/

On the pilgrim's path of Jyegu Monastery, Kham Jyegudo (Yushu),Eastern #Tibet in 1992 autumn

経文や真言を刻んだ石板を積みまくったマニ塚だ。この積み具合、かなり気合が入っている。婆ちゃんと思われる人が写っているのでサイズ感もわかるだろう。隣には大きなマニ車を具えたお堂がある。ジェクンドのチベット人たちが(たぶん)朝夕立ち寄る日常的な祈りの場なのだ。ジェク・ゴンパは遥か丘の上にあり、毎日上るのは辛いもんな。

さて、こののどかなジェクンドを大きく変えてしまう出来事があった。2010年4月14日に起こった「青海地震」だ。約10万人が住む家を失った、とwikiに書いてある。実際、多くの家屋が倒壊し、命が失われた。その後、ここぞとばかりに街を一新する再開発が行われ、中心部は一変。ちなみに、ジェグ・ゴンパの400年の歴史を誇る集会堂は、あの地震でも倒れなかったそうである。さすが。

しかし、マニ塚はひとたまりもなかっただろう。ただ石を積んだだけだもん。2018年夏、再開発で変わり果てた街の中で場所を特定して再訪。アングルが違うが、こんな感じになっていた。

https://www.instagram.com/p/BolQCJ0AVJD/

circumambulating girl with smartphone at Mani Lhakhang near Jyegu Monastery, Kham Jyegudo, Eastern #Tibet on August 2018

 

前のほうがよかった。とかヨソ者として勝手なことを思うわけだが、丈夫になってよかったと思う。写真はたしか夕刻。爺婆に混じって、スマホ&ヘッドホン姿の女の子がコルラ(何か大切なものの周りを時計まわりに回ること)していた。チベット人さすが!と、かなり和めた。ちなみにジェクンド界隈では、こんなヒップホップミュージシャンが人気であり、1376というブランドのショップもあった。


ANU Ranglug - 1376 - ༼ཅི་བསམ་དོན་འགྲུབ།༽ - Tibetan Song with Lyrics

 

1376をཅི་བསམ་དོན་འགྲུབ།と読ませるあたり、わかってる感ハンパないな。ライブ映像とかもあるので、「1376 anu」で検索してみてほしい。で、その1376のショップに行った帰りに、街の中心部から望むジェグ・ゴンパの近影。

 

https://www.instagram.com/p/Bmh7YNoBA5-/

King Gesar statue and Jyegu Monastery, Kham Jyegudo, Eastern #Tibet 3 days ago

 
手前にあるのは、街の中心にそびえる巨大なケサル大王像。近くで見ると、とにかくデカイ。ジェクンドもケサル大王ゆかりの地とされている。地震からの復興の心の支えになったんだと思う。

【映画】『プレミアム・ラッシュ』とチベット

まったくそういう予感もなしに映画とかを見ていて、思いがけずチベットネタをぶっこまれた時ほど感慨深いものはない。たとえば、『デンジャラス・ビューティー』でサンドラ・ブロックが急に「ダライ・ラマダライ・ラマダライ・ラマ」と口走った、みたいなやつである。その1つがこれ。

プレミアム・ラッシュ (字幕版)
 

ノーブレーキのピストバイクでNYを疾走するメッセンジャーの話『プレミアム・ラッシュ』。主演は『スノーデン』の人だ。以下、ストーリーの核心には触れないが、ネタバレになってしまったら申し訳ない。何も知らないで見たほうが、楽しめるかも。

一見どこにもチベットを連想させる要素はないが、ストーリーの核心に絡む、というか、事件の原因を作り出した人物として「中国人女性ニマ」が登場する。2年前にNYのロースクールに留学し、働きながら学んでいるという設定だ。

ここで、おっ、と思うだろう普通(?)。ニマというのは典型的なチベット人の名前だからだ。意味は「太陽」。日曜日に生まれたという理由で付けられることもある。とはいえ、もしかしたら中国人(漢人)にもニマという名前があるのかもしれない。発音的にヤバそうなので、ないかもしれないが。いずれにせよ名前だけでチベットと関連づけるのは無理がある。実際、彼女は中国語(普通話)を話し、チャイナマフィアコネクションを使ってあれこれやっている。

が、「チベット疑惑」は、それだけではない。ニマがあれこれせざるをえなかった理由が明かされるのだ。

でも、昔書いたチベットの記事がネットに出て

政府が出国を認めなかった。

けっこう唐突に、こう来た。

いったい、ニマはどんな経緯で、どんなチベットの記事を書いたのかが明かされることはない。この一言だけだ。ロースクールに留学するぐらいだから、中国でも法学部で、人権派だったりしたのかも。この映画、撮影は2010年のようなので、2008年のチベット動乱が下敷きになっているのかもしれない。なんて想像は膨らむ。

あと、チャイナマフィア的な大物がニマに「ブッダのご加護を」(「菩萨保佑你」と聞こえる)と言ったりして、仏教を絡めてくるのも興味深い。そう思うと、風貌までチベット人に見えてくる。女優さんは韓国系だが。

真相は定かではないが、ここで「チベット」を絡めることで、ニマに「100%いい人」「最後に報われる役」のフラグが立ったのだと思う。「チベット」の一言は、そういう味わい深い効果のある記号なのだ。で、実際そうなってしまうのがハリウッド映画。ご想像の通りなので安心して見てほしい。

それだけ「チベット」というものの意味がハリウッド方面に広く浸透してるということだろう。何の補足説明もなくても、「チベットの記事」といえば、あ、そういうことね、と通じてしまう。常識でしょ、の世界。そんなこととは関係なしに楽しめる『プレミアム・ラッシュ』をぜひ。以前はAmazon Prime Videoの見放題枠に入っていたが(huluかNetflixだったかも)、今は3日間レンタル190円のようだ。 

プレミアム・ラッシュ (字幕版)
 

おまけ。そういうネタ満載の真面目な本です。

世界を魅了するチベット―「少年キム」からリチャード・ギアまで

世界を魅了するチベット―「少年キム」からリチャード・ギアまで